キリスト教世界観からみた社会制度
目次
1)契約とは
2)聖書に規定されている、三つの社会制度--家庭、教会、国家
3) 一と多(統一性と区別性)
4)統治(治めること/Government)
4-1 自己および家庭における統治(Self-government and Family Government)
4-2 教会における統治(Ecclesiastical gorvernment)
4-3 国家における統治(Civil government)
5)国家、教会、家庭の相互関係
6)政教分離について
7)むすび
1)契約とは
まず、契約(Covenant)という重要な概念について簡単に見ておくことにいたします。
万物の創造者にして、唯一の生けるまことの三位一体にいまし給う神の言葉である聖書は契約の書です。 創造者である神が人間と契約をむすんでくださったのです。
この契約は神の一方的な恵みにより与えられ、神御自身が憐れみと恵みのうちに、神がこの契約を保持してくださっています。 契約は聖書を理解する上で根本的かつ基本的概念ですのでその性質について手短かに述べます。
まず創造者なる神は4つの契約によって社会を支配しておられます。それは下記の四つです。
1* ひとりひとりの個人との契約
2* 家庭との契約
3* 教会との契約
4* 国家との契約
契約の五特質
さて、Ray Suttonという牧師は、その著書That You May Prosper(あなたが栄えるために)において、契約には下記の5特質があると述べています。
1. 神の超越と内在
神は万物の創造者であり、今も万物を御自身の御旨によって支配しておられます。創造者なる神は御自身のお造りになった被造物と区別されます。いいかえると、被造物が神になることはありません。神は御自身の主権によって、すべてを支配しておられます。
同時に神は被造物と共におられます。神は被造物からまったくかけ離れて存在しておられるのではなく、むしろ、万物のすみずみにまで神のみわざがあらわれています。
2. 秩序/権威/上下関係
創造者にして支配者である神は、人間をひとりひとり直接的に支配しておられます。人間は神の命令に従わなければなりません。ひとりひとりの個人は自らのなすことを神に対して申し開きをする責任をおっています。
「私たちはみな神の審判の座の前にたたなければならない。次のように記されているからである。『主いい給う。我は生くるなり。 すべての膝は我が 前にかがみ、すべての舌は神をほめ讃う。』それゆえ、私たちは、ひとりひとり神に対して申し開きをしなければならないのである。」(ローマ 14章10節 -12節)
その上で神は社会の秩序をたてられます。ですから全て社会における権威は創造者なる神に依存しています。
3. 法/基準/倫理
創造者である神は、契約を実行していく際に、法的、倫理的な基準を制定されました。それが、聖書の御言葉であり、そして、特に聖書律法 (Biblical Law)と呼ばれている法体系において、神は御自身の御旨を示されています。法なくして、契約は存在し得ないのです。そしてまた、神の定めた法はすべての 被造物におよんでいます。それゆえ、すべての存在は必然的に倫理的な存在となるのです。
4. 誓約/裁定/祝福と呪い
契約は誓約にもとづいて施行されます。創造者なる神に従い契約をまもるならば契約に定められた祝福が与えられ(申命記28章1節-14節)創造者なる神に反逆し契約を守らなければその契約に定められた呪いと裁きが与えられます。(申命記28章15節-68節)
別な言い方をするならば、創造者なる神は因果律を制定されました。すべての物事に原因と結果があります。創造者なる神がすべてを支配し給うゆえに、 この因果関係は決して無作為(random)なものではなく、倫理的な意味をもち、それは究極的に神の栄光をあらわすものとなるので�キ。 個人も家庭も 教会も国家も契約を守れば祝福され、契約をやぶれば裁かれ呪われるのです。
5. 相続/継続性
契約は神の御旨によって継続されます。どんなに時代がかわろうとも、神の言葉も神の契約も変わることがありません。
創造者なる神はこう宣言しておられます。
「我を憎む者に向かいては父の罪を子に報いて三代、四代におよぼし、我を愛し我が戒めを守る者には恵みを施して千代にいたるなり。」(申命記5章9-10節)
同時に私たちはどのような時代においても、時が良くても悪くても、創造者なる神との契約を守り続けていかなければならない責任があるのです。
2) 聖書に規定されている、三つの社会制度--家庭、教会、国家
創造者なる神の御言葉である聖書において、社会には三つの社会制度があると規定されています。 それは家庭、教会、国家です。
神は聖書の御言葉により、この三つの社会制度を権威づけておられます。つまりこの三つの社会制度は神によってたてられたものです。 そして、神は聖書の言葉をとおしてこの三つの社会制度を支配しておられます。
これらの三つの社会制度は聖書を神の言葉と信じ神に従い神に仕えるように定められています。
さて、聖書にはこの三つの社会制度が従っていなければならない法的な規定が書かれています。これが、聖書律法(Biblical Law)とよばれている法体系です。キリスト御自身がまず、この聖書律法をつぎのように定義してくださいました。
「心をつくし、思いをつくし、知性をつくして あなたの神である主を愛せよ。これが第一のそして、大切な命令です。 第二の命令もまたこれと同じ ように大切です。あなた自身のように隣人を愛せよ。すべての律法と預言者とはこの二つの戒めによっているのです。」(マタイ22章37-40節)
神がモーセに記させた十戒はこの法体系の大項目とも言えるものであり、その中項目としての数百の判例法があります。 そしてさらに、実生活における具体的な適用例として、箴言があります。
聖書律法を基準にして、この三つの社会制度は神との契約的関係にあります。ですから、この神との契約を守れば祝福があたえられるし、やぶれば神から の裁きがなされます。また、三つの社会制度の相互関係も、それぞれの社会制度内における人間関係も聖書律法を土台にすえた契約関係によって規定されていま す。
ですから聖書によれば、憲法も商法、民法、刑法といった法体系も聖書律法を土台にすえたものとなるわけです。 また、このことをいいかえるならば、これらの具体的な法律もマタイ22章37-40節の精神を反映したものとなるべきであるということになります。
3)一と多(統一性と区別性)
さて個人と社会制度という問題を考えるにあたって、とても重要なことがあります。それは一と多(The one and the many)と呼ばれている概念であり、これは「存在するということはどのようなことなのであるか」という問題を考える際に避けて通ることのできない概念で す。
一と多について考えるためには、まず創造者なる神について学ばなければなりません。 創造者なる神は三位一体の神です。
聖書の教えを簡略にまとめたものとして、ウェストミンスター大教理問答がありますが、まずそこからの引用をいたします。
問 ひとりの神のほかにも神々があるか。
答 ひとりの神がおられるだけであり、それは唯一の生けるまことの神である。
(ウェストミンスター大教理問答 8番)
問 神にはいくつの神格があるか。
答 神には三つの神格があり、それは父と子と聖霊であり、それぞれは固有の属性をもつことにおいて区別されるが、この三者は唯一のまことの永遠の神であり、本質において同じ神であり、力と栄光において等しい
(ウェストミンスター大教理問答 9番)
つまり神はひとりであられ(単一性)そして同時に三者(多様性/固有性)であられるということなのです。つまりこの三者は等しい力と権威と栄光を持つ唯一の神(一つ)であり、同時にそれぞれが固有の働きをなし給う(三つ)のです。
この三位一体の神は万物の創造者であられ、それゆえ、神によってつくられた被造物はこの三位一体の神の存在しておられるありかた(本体論的三位一体Ontological Trinity)を反映することになります。
いいかえると事物の存在様式は神御自身の存在のありかたによっています。
この本体論的三位一体において、単一性(一)も多様性(多)のどちらも究極的であり、この二つは対立することなく、どちらか一方に片寄ることなく、 秩序のうちに、互いに調和して、かつ共存する状態にあります。 これを存在論においては一と多(The one and the many)の調和�ニいいます。
したがって、人間の社会のありかたにも一と多は反映されることになります。
たとえば、家庭をみるならば、父親、母親、子供達といったそれぞれの家庭の構成員(多)が一つの家庭(一)を構成します。 それぞれの構成員は個性を持ち、かつ個性をもちながら、互いに愛しあい調和と秩序のうちに一つの家庭をつくりあげています。
また家庭、教会、国家はそれぞれ固有の働きをしますが同時に調和し一つの秩序をつくりあげていくわけです。
ラグビーなどのスポーツなどでもこれを見ることができます。「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」という言葉も人間社会における一と多のありかたを言い表わしています。
しかし、一と多が調和することはなかなか、うまくいきません。たとえば、家庭においていわゆる、家庭崩壊ということがおこるとき、これは家庭が多の 方向にいってしまっているし、もし、父親が暴君のように家庭を支配してしまい、母親や子供達の個性がまったく押さえ付けられてしまえば、これは家庭が一の 方向に片寄ってしまっていることになります。
国会と個人のあり方に目を転じてみるならば、全体主義は一が究極的であるとします。つまり個人は国家のためのみに存在します。 他方で、無政府主義は多が究極的であるとします。この場合、社会秩序は存在しなくなります。
人間の歴史をみますと、極端な多と極端な一をいったりきたりすることが良く見られます。全体主義が崩壊すると、次に無政府状態に基づく社会の混乱が おこり、無政府状態の中から強大な権力を持つ個人があらわれて全体主義を打ち立てるというぐあいにです。 例えば王が暴君としてふるまい、民衆が抑圧され ていることが続くと(王にあって一なる全体主義)、次に革命が起こりそして、一時的に混乱状態となり(多である無政府主義)権力闘争などがおこって、また あらたな独裁者が出現する(独裁者にあって一なる全体主義)といった具合にです。
理想的な社会のありかたは、全体主義でもなければ、無政府主義でもありません。
では、一と多の調和はどうしたら達成されるのかといいますと、それは、家庭、教会、国家が創造者なる神の御言葉に従うときに達成されます。
創造者なる神御自身が一と多の調和のうちにいましたもう三位一体の神であられるので、その神の御言葉である聖書に書かれた家庭、教会、国家のあるべき姿も神の意志を反映しています。
言い換えると、聖書に書かれた家庭、教会、国家のあるべき姿に私たちは一と多の調和を見い出すことができるのです。つまり、一と多の調和は聖書の神の言葉に従うときにはじめて達成されます。
そして聖書が規定するこの三つの社会制度は聖書に従うという点で完全に一致していますが、その機能において、異なっています。つまり、家庭、教会、国家はそれぞれ固有の存在価値を持ち、それぞれ固有の機能を持っています。
4)統治(治めること/Government)
ここで統治(治めること/government)という概念をまず説明しなければなりません。治めるとか支配するとか言う言葉を聞くとまず他者を治 めたり支配したりすることを思い浮かべがちですが、聖書ではまず自分自身を治め、自分自身を支配することが命ぜられています。どのように�オて、自分自身 を治め、支配するかといえば、それは聖書にしめされている、創造者である神の御言葉に従うことによってなのです。ひとりひとりの個人が神に従うことによっ て、自らを治めるならば家庭も神に従うようになり、教会も、国家も神に従うようになります。ここで大切な�アとは、聖書によるならば、統治は必ず個人のレ ベルからはじまるのであって、国家のレベルから始まるのではないということです。国家のレベルから統治が始まるならばそれは、しばしば強制をともなう圧政 になってしまいがちなのです。
現代社会では統治(government)というと政治のことをさしてしまいますが(現代の意味でのGovernmentは、もともとはCivil government国家統治と呼ばれていました)聖書的には、家庭、教会、国家のそれぞれの領域において、統治が行われるとしています。この統治と言う 意味には�A先に述べましたように、「まず自らを統治すること」と(国家も教会も家庭もです。)「神に仕え他者に仕える」という大切な概念が含まれていま す。(マルコ10章42節-45節)
4-1自己および家庭における統治(Self-government and Family Government)
この統治はどこから出発するかと申しますと、実は、個人が聖書の言葉に従い神に仕え自らを治めることから出発します。(自己統治Self government)自らを治めることが良くできる人つまりセルフコントロールができる人を、私達は大人だといいます。その意味で私達はまだ大人になっ ていない面がかなりあるわけです。(ですから、個人が自らを治めることができない程度があまりにもひどいと、かわりに国家などの社会制度が個人を規制しな ければならなくなってきます。)
次に神は結婚という制度をたてられました。この制度において、神によってたてられた結婚の契約に入れられた男女が聖書の言葉に従い神に仕え自己統治 をするべく努力し、家庭を築きあげていきます。ですから、キリスト者の家庭で例えば夫婦喧嘩がおこれば、まず、両者はまず聖書に戻って問題の解決を求めま す。この家庭と言う制度においては聖書ははっきりと父親の権限を規定します。特に聖書においては、父親は家庭の構成員に仕えることで家庭を治めることがす すめられています。前にも述べたように、家庭の各構成員が聖書の神の御言葉に従う時に家庭における一と多が可能となります。
4-2 教会における統治(Ecclesiastical gorvernment)
教会の持つ最も重要な使命は福音の宣教です。教会はその土台をイエス・キリストに対する信仰告白においています。教会はイエス・キリスト御自身によってたてあげられます。本来、教会は何らかの政治権力によって立てあげられるものではありません。(マタイ18:20)
神は信仰者を集め、そこに教会が神によってたてられます。教会は神との契約に入れられたキリスト者によってなりたっています。教会は神との契約のし るしである、バプテスマと聖餐式をとりおこない、そして、聖書の真理を保ち、真理の柱、真理の土台となります。(I テモテ3:15)そして、教会は家庭、国家に対して聖書を教える立場にあります。
もう一つ教会の重要な使命は福祉にあります。19世紀までこの分野はほとんど教会の独壇場であったのです。たとえば、むかしは病院も教会が本来運営しておりました。(英語の「病院」と言う言葉は「もてなす」問いう言葉からきています)学校も教会が運営しておりました。
実は聖書において、国家は福祉に関与しません。国家が福祉の主役になったのは、歴史上ではごく最近のことであり、国家が福祉に関わることが、現代社会において、いろいろと問題になることがあります。
教会には牧師、長老、執事といった職務がありますが、これらは、神によって権威づけられています。彼等は御言葉をとおして、福祉のわざをとおして、神の民に仕える人々です。
教会においては、信徒による民主政治(Democracy)が行われるわけでもなければ、指導者たちによる専制政治がおこなわれるわけでもありませ ん。教会ではキリストによる政治(Christocracy/Theocracy)が行わます。ここにも一と多の調和があります。
いいかえるならば、聖書による法治政治がなされます。その時に始めて教会内の一と多の調和が可能になります。 人は全て神の御言葉の前に平等であり、御言葉がすべての基準となります。
これは、近代社会における法治主義につながるものでした。
4-3 国家における統治(Civil government)
国家の最大の使命は神によって定められた法律(聖書律法 Biblical Law)、そして、それに基づく、もろもろの法律を 守り、聖書に定められた正義を行うことにあります。(ローマ人への手紙 13章1節-7節)
忘れてはならないことがあります。 それは、国家が究極の権威なのではなく、神が究極の権威であるということなのです。 国家が神に従わなければ神御自身が国家を裁かれます。ですから、国家自身も聖書の言葉に従わなければなりません。国家は救い主には成り得ません。
イエス・キリストのみが救い主であると聖書は教えています。しかし、もし国民が国家というものに依り頼む心--たとえば、家庭が責任をもってなしと げるべきことや教会が責任をもって成し遂げるべきことを、国家に代わりに代行してもらおうとするような心--をもっていると、国家は国民を支配してしまう ことがおきます。家庭も教会も国家もそれぞれに定められた法的権限の範囲を自己支配のもとに守らねばなりません。また、一方で家庭も教会も国家もそれぞれ に与えられた権限を責任をもって神に従いつつ実行していかなければならないのです。
ここで、少し法の支配ということについて、述べさせていただきます。
すべての人は神の定めた法のもとに平等であるということは、とても大切なことなのです。一例ですが、たとえば、江戸時代にこの概念は非常に貧弱であ りました。たとえば侍が町民を切り捨てても、なかなか殺人罪には問われませんでしたが、逆に町人が侍を切り捨てれば これはすぐに、殺人罪になったわけで す。
そうすると、すべては、個人の善意とか良心というものにかかってしまうわけですが、これには限界があります。少し間違うと善意とか良心とかをもった 個人そのものが法になってしまいます。そうなると、たとえば絶対王政などにおいても良い王が王であるか悪い王が王であるかによって全てが変わってしまいま す。
神の定めた法のもとにすべての人が平等であるということは、いいかえるならば、王の王、主の主であられるイエス・キリストを王とすることになりま す。 そして、どのような王が国を支配しようと、その王はキリストに従わなければならないし、王がもしキリストに逆らおうとするとき、教会にはそれを戒 め、武力ではなく、神の御言葉によって王を裁く権限があたえられています。王でさえも神の御言葉に逆らうならば、創造者なる神御自身が王を裁き給うので す。
ですから、法を守るということはとても大切なことであることがわかります。まず正しい法律でなければならない。正しい法律は、義なる創造者である神にその源があります。
「主は岩であり、その御わざは完全である。主の道はことごとく正しい。主は真実の神にして、悪しきところがない。主こそ正義でありまっすぐな方であられる」(申命記 32章4節)
聖書律法には神の御旨が示されています。すべての法律は神のみこころにそってつくられなければなりません。 それは、
「心をつくし、思いをつくし、知性をつくして あなたの神である主を愛せよ。これが第一のそして、大切な命令です。 第二の命令もまたこれと同じ ように大切です。あなた自身のように隣人を愛せよ。すべての律法と預言者とはこの二つの戒めによっているのです。」(マタイ22章47-40節)の言葉を 土台とした法律なのです。
こうして、また神の御旨を反映した正しい法律が制定され、みながそれを守るときに 神から契約的な祝福が与えられ、社会は繁栄します。
聖書にはすべての分野のための青写真が示されています。国家のありかたの青写真もまた聖書に記載されています。
5)国家、教会、家庭の相互関係
まず、下記の図をごらんください。これは Gary DeMarという人のGod and Government という本に書かれている図に少し手を加えたものです。今まで述べさせていただいたことを整理するとこのようになります。
--------------------------------------------------------
神
(外部からの支配を受けず、自律的であり、かつ無限の統治権を持つ)
イザヤ 9:6-7
⇩
神の御言葉---聖書
契約
┃
人間と人間による社会制度
(神に依存し、神から依託された限定的な統治権を持つ)
コロサイ1:16-17 ローマ13:1-4
家庭 教会 国家
(自己統治) (自己統治) (自己統治)
神の主権のもとに 神の主権のもとに 神の主権のもとに
自己統治する 自己統治する 自己統治する
個人によって 個人によって 個人によって
構成される 構成される 構成される
----------------------------------------------------------
家庭も教会も国家も神との契約関係にあり、それゆえ、それぞれ社会制度において、構成員は神からと同時にそれぞれの属する社会制度において、契約的に取り扱われます。ですから、たとえば、それぞれの組織において契約の五特質が反映されています。
例えば、家庭において、家長は家長としての責任を逐いつつ、家庭を治めます。家長は子供達を教え導きます。ときには、おしりをたたいたりして子供達に罰も与えるわけです。
教会においては神の御言葉に仕える牧師、長老、執事といった職務を遂行する人々が教会を神に従いつつ、(それぞれが個人的に神との契約を守りつつ)人々を導きます。教会においてもたとえば、教会戒規の施行などの契約的に信仰者が取り扱われることもあります。
国家においては、為政者がたてられ、さまざまな組織がたてられています。国家には法をやぶるもを罰する権限が与えられています。
さて、聖書においては、家庭、教会、国家はそれぞれ固有の法的権限(jurisdiciton)をもっています。しかし、それらは限定されたものです。この法的権限はそれぞれ質的に異なる性質をもっています。
たとえば、ある家庭の家長は、他人の家庭に入り込んでその家庭を支配する権限をもちません。また国家が家長のかわりに家庭を治めることもなければ、 国家が子供を生み育てることもありません。また家庭が教会を支配することもありません。教会が国家を支配することもありませんし、逆に国家が教会を支配す ることもありません。
むしろこの三つの社会制度はそれぞれが補いあい助け合うようにたてられています。国家は法を守り実行することによって、家庭、教会を保護し、教会は 聖書の教えを家庭、国家に教えることによって、家庭、国家の徳を高める働きをします。そして、家庭は例えば次の世代をになう子供たちを育てることにより教 会、国家に貢献することになるわけです。
しかし、くりかえしますように、この三つの社会制度は神に従うことにおいて一致していますがそれぞれが固有の権威を神から与えられているのです。
つまり、一と多がこのようにして調和しているわけです。
以上が聖書に示されている社会制度の青写真の概観です。
6)政教分離について
さて、政教分離とは国家と教会の分離を意味します。
サウルが罪に定められたのはこの原則をやぶったからでした。サウルに対しては国家の長としての権限および限界が定められていたにもかかわらず、彼はセルフコントロールができずに教会(いけにえを捧げるという)の権限にまで手をのばしたことが神に裁かれたのでした。
国家と教会が分離しなければどちらも腐敗してしまうのは、歴史上に存在する数多くの例がしめすとおりです。そう言うなかから教会が国家の暴力に加担 するようなことが起きてきます。もし国家が暴走して たとえば、侵略なり、ユダヤ人虐殺なりをしようとするならば、教会の使命は神の教えに反するこれらの 行為を 神の御言葉を説いて、全力をもって阻むことなのです。
そう言う事例も少なからずあることはありますが、多くの場合、教職者や信徒が殺されたり投獄されたりして、国家は暴走をつづけます。そうすると、国 家は最終的に神にさばかれて、破たんしたり、滅亡したりするのです。もし教会がその職務をおこたれば、教会も神に裁かれてしまいます。そのさばきはすぐに くるかも知れないし、長い時間をかけてその裁きがなされることもあります。 聖書はこう書かれています。
「裁きは神の家より始まる(I ペテロ4:17)」
ローマ帝国がキリスト教を国教とした際にも政教分離は行われませんでした。なぜかと言いますと、非常に乱暴な言い方ではありますが、やはり当時の教会の神学が不備であったと言わざるを得ません。
たとえば、キリスト者は一生かかって聖書を学びます。そして、聖書を学ぶには人生はあまりにも短すぎます。実はキリスト教会も もう2000年以上 聖書を学んでいるのです。まだ、その学びは完成していません。 数えきれない程の失敗をして そこから学んで 少しずつ神学が進歩していきます。 いまも 発展途上なのです。
例えば「神は三位一体であられる」ということを皆がはっきりと理解するまでに約400年かかり、「人は信仰によって義とせられる」という聖書の教えをみんながはっきりと理解するまでに1500年かかりました。
ローマ帝国における失敗の結果は現在に至まで影響をおよぼしています。ローマ教会やヨーロッパ諸国の国教会のシステムは今だに問題を抱えています。
ヨーロッパでの失敗があったのでアメリカは国教会を持たなかっのです。(アメリカは人間中心主義という別の問題を抱えてしまいましたが)
政教分離についての理解が進んだのもキリスト教の歴史においては極めて最近のことなのです。それを理解するまでに多くの失敗がありました。
確認しておかなければならないことがあります。それは政教分離とは宗教と政治の分離なのではなくて、教会と政治の分離であるということです。すべて の人は宗教的です。「自分は無神論である」というひとも「無神論」という宗教を信じています。すべての人は創造者なる神の前に倫理的な存在なのです。すな わち創造者なる神に反逆するのか、従うのかのどちらかになります。
同じようにすべての社会制度は必然的に宗教的なのです。宗教色を排除してもそれは人間中心主義(ヒューマニズム)というこれまた一つの宗教が残って しまいます。。 人間中心主義は人間を究極の存在とし、人間を神とする宗教です。 こういうわけで、すべての国家は宗教的にならざるを得ません。どの宗
教なのかということだけなのです。ですから政教分離とは国家が宗教と分離することなのではなくて、国家が教会と分離することなのです。
7)むすび
すべての社会制度は創造者なる神の主権的支配のもとにあることが聖書にかかれています。
創造者なる神は無限、永遠、不変であられます。
無限であるゆえに唯一の神なのです。また神はすべてを主権的に支配しておられます。
神に従うのでもなく、神に反逆するのでもないといった中立の立場は存在しません。
Robert Thoburn という教育者は次のように述べています。
「中立の立場が存在するなどというのは空想にすぎない。.... 中立の立場とか中立領域などというものは存在しない。 全ての分野/領域は(創造 者にして主権者である)神の関与と支配のもとにあり、それゆえ、神の関与と支配の及ばない分野/領域などというものは存在しない。 もし中立領域が存在す ることを認めるならば、それは、神が全宇宙のほんの一部に閉じ込められていると主張することを意味するのである。」Robert Thoburn, The Children Trap (Ft. Worth Texas: Dominion Press, 1986), p. 82
こういうわけで、キリスト教的世界観か非キリスト教的世界観かの 二つの世界観しか存在しないことになります。現代社会の混迷の原因は絶対的存在である創造主なる神を否定し、その結果として、すべての価値基準を相対的に とらえてしまう相対主義が広がってしまったことにあり�ワす。倫理も道徳も相対的なものとなってしまったので、いまや価値判断の基準がなくなってしまって います。
この混迷の状況は単に伝統的価値観と呼ばれているものに戻っても解決しません。というのは伝統的価値観もしょせんは人間のつくりだしたものだからです。
創造者なる神の御言葉のみが不変であり、普遍なのです。 聖書にはすべての分野における解決が示されています。 そこに、わたしたちの進むべき道が示されています。
わたしたちは、創造主なる神につくられた被造物にすぎません。神にいい逆らうことは許されていないのです。
「ああ人よ、神にいい逆らうあなたは何者なのか。つくられた者がつくった者に対して、『なぜ、あなたは私をこのようにつくったのか?』といえるだろ うか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりを 尊い目的に用いる器にも、賤しい目的に用いる器にもする権能をもっていないのだろうか。」(ローマ 9章20 -21節)
すべての人は前提によって生きています。
R. J. Rushdoony という神学者は次のように述べています。
「もし人が自分の前提に忠実に論理的であるならば、例えばもし仏陀の教えに従い、無(nothingness)という前提から出発するならば、彼は 無に終わる。 しかし人間が論理的であることは稀である。(創造者なる神を)信じないという前提に忠実であるならば、それは何も知ることができないという 結論にいきつくのである。
ところが罪人はこれを認めない。 彼はこう主張するのである。すなわち 『神に関することや神を指し示す状況に関してだけは何も知ることができな い』と。 そして、彼は神に関すること以外については、いつも(創造者なる)神のみが与えることのできる宇宙を当たり前の前提としているのである。そうし ていながら、その宇宙をつくった神を否定するのである。.......
もし人が事実のみから出発するならば、すべての事実を徹底的に網羅的に一つ残らず調べかつ極めない限りなにも知ることはできないのである。」R. J. Rushdoony, "The Quest for Common Ground" in Gary North(ed.), Foundation of Christian Scholarship (Vallecito, California: Ross House Books 1979), p 33
私達はリンゴが木から地面に向かって落ちることを当たり前と考えています。この「当たり前と考えるということ」が前提なのです。 もし事実を調べ確 かめ検証することから真理にいたらなければならないと主張するならば、世界中のすべてのリンゴの木を調べ尽くさなければならないのです。そうしない限り 「リンゴが木から地面に向かって落ちる」と断言することはできません。こういうことをしていると学問は成立しません。つまり私達は知識を得ることができな いのです。
創造者なる神がすべてをつくり、今もなお支配しておられるという前提がないかぎり、わたしたちは、何もできません。 この前提なしに私達は生きていくことは不可能です。
罪人が創造者なる神を否定することは、実は創造者なる神が存在することを認めているからなのです。存在しないものを否定することはできません。
聖書にはこのように書かれています。
「神の怒りは、不義をもって真理を阻む人々のもろもろの不敬虔と不正に対して天から啓示されているからである。 なぜなら、神について知りうるべき ことは彼等に明らかであるからだ。神がこれを彼等に示されたのである。なぜなら神の、目にみえない属性、すなわち永遠の力と神性は 世界が創造されてから 被造物において はっきりと認められ理解されるがゆえに、彼等が言い逃れることはできないのである。」(ローマ1章18節-20節)
以上、社会制度について、聖書に示されている世界観にもとづいて、短く考察をしてみました。
これを理想論として片付けるべきではありません。
聖書において 創造主であられる神は個人、家庭、教会、社会が神に従うことを命じています。創造主なる神の言葉の真理を前提としないかぎり、私達は 何もできないのです。私達ひとりひとりの個人の人生において、家庭において、教会において、国家において、その他もろもろの組織において、主権者なる神が 指し示す基準がなくなってしまえば、私達の前には荒廃と滅亡がもたらされるだけなのです。創造主なる神なき社会は死と滅亡に向かいます。そして、今まさ に、この現代において、私達は社会が創造主なる神に反逆し、死と滅亡の道に向かっていこうとするのを見ています。
創造主にして絶対主権者なる生ける唯一のまことの神はかつて、モーセをとおしてイスラエルの民に対して次のように命ぜられました。 そして、この命令は現代に生きる私たちにも与えられているのです。
「見よ、我、今日(きょう)、命と幸い および 死と災いを 汝の前におけり。すなわち、我、今日 汝(なんじ)にむかいて汝の神 主を愛し、その道に歩み、その戒めと律法(おきて)を守ることを命ずるなり。
しかなさば、汝 生きながらえてその数多くならん。 また汝の神 主、 汝がゆきて、得るところの地にて汝を祝福(めぐみ)給うべし。
されど、汝もし心をひるがえして、聞き従わず、誘(いざな)われて他の神々を拝みまたこれに仕えなば、我、今日、汝らに告ぐ。汝らは必ず滅びん。..............
我 今日、天と地を呼びて証(あかし)となす。 我は生命(いのち)と死 および 祝福(めぐみ)と呪詛(のろい)を汝らの前に置けり。
汝、生命(いのち)を選ぶべし。
しかせば、汝と汝の子孫 生存(いきながら)うることを得ん。(申命記 30章15節-19節)」
参考文献
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DeMar, Gary. Ruler of The Nations. Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1987
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Copyright © 2006 Shu Suzuki

