Dialogue on Bach's music
バッハからの贈り物という本のなかでの鈴木雅明氏と加藤浩子氏の対談がまとめられた「バッハからの贈り物」という本から引用いたします。
(引用開始)
鈴木
ところが、バッハを理解するためには、キリスト教の信仰が必要か、と問われたら、ぼくの立場からは、ぜひとも必要ですと応えるしかないんですね。ぼく自身のバッハ理解を自分の口から言う以上、ぼくはキリスト教の立場でものをみていますからね。だから、バッハはこうです、というひとつの像があるとして、その同じ像を共有したいと思ったら、キリスト教という点を共有しないではありえないんです。キリスト教のことを少しは知らなくてはバッハ理解はできないという人もいますが、そうではないんですね。”知る”かどうかではなく、問題は、”信じる”かどうかだけです。 前から言ってきていますように、そもそも問題は知識ではないんです。
加藤
知っていることを確認するとか、楽譜をいろいろつきあわせて、ああでもないこうでもないと詮索するのとは......
鈴木
そもそもクリスチャンでない人がキリスト教を理解する必要はないですね。なぜなら、キリスト教を”理解する”のは知識ですることではありませんから。
加藤
クリスチャンだからといって、バッハ理解が深いといえるのでしょうか。
鈴木
それは、全然言えません。 日本のキリスト教会内部の人に対しても伝えたいメッセージがぼくにはあるんですが、なかなかうまくいきません。それは本質的な点においては価値観を共有できる人たちのはずなのに、バッハに対する、あるいは音楽に対する感受性の欠如というか、無関心の度合いが甚だしい。もちろん、そうでない人もごく少数いますが、一般論からすると、日本のキリスト教会というのは、キリスト教的伝統を受け継いで入るけれども、それに伴う文化観については極めて乏しいんですね。キリスト教の信仰的なことと、この世をどのように評価し、この世の文化をどのように受け入れ、また享受するかという価値観とは微妙に違うんですよ。
キリスト教的な立場にあっても、プロテスタントとカトリックとももちろん違うし、、バッハ時代の言葉でいえば、同じプロテスタントとカトリックとももちろんちがうし、バッハ時代の言葉でいえば、同じプロテスタントでもピエティスムス的(敬虔主義)な人々というのは、当時から音楽にはあまり興味をもっていなかった。言ってみれば、この世というのは罪にまみれたものであって、いずれは滅びるものlなので、自分自身の救いのほうに大きな関心を置く。それはそれで、ある意味で正しいとも思うのですが、では、いま現実に生きているこの世の中をどう評価するか、ここにも何らかの意味があるのかどうか、という問題が起こります。
そこで、ほんとに微妙な問題なんだけれど、考えかたが分かれるんです。そして、ぼくは幸か不幸か、バッハをやっていながらルター派ではなく、カルヴァン派(改革派)の人間なんですね。カルヴァンはどう言ったかというと、カルヴァンはこの世を認めるわけです。この世の文化というものを認める。神は天地創造をされた後に、この世を「よし」とされた。そして、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命ぜられた。われわれはこれを「文化命令」といっているんですが、要するにこの世の中で活動せよ、と命令を下したわけです。
加藤
それに従って、活動されておられるんですね。
鈴木
まあ、大げさに言えばそういうことです。だから、ビールを飲むのも主のため、けんかをするのも主のため、仕事をするのも主のため。そういうさまざまな、すべてのことを含めたこの世の活動を”よし”とされて祝福された、というふうにぼくは思うわけです。こうした認識が共通で、かつバッハの音楽にも理解と感受性をもって(別にバッハは嫌いでも感受性はありうると思うから、それはそれでいいんですが)、バッハについて知りたいと思うような地平をいっしょに共有できる人は、ほんとに少ない。
だから、ぼくはつねにそういう意味でサーカスの綱渡りをしているつもりでいるんです。自分の歩んでいる道のこちらに倒れても、あちらに倒れてもだめ。バランスを欠くんです。したがって、バッハの音楽を少しでもよけいに高く評価しすぎてもだめなんです。この世の目的は音楽ではないわけですから。逆に、この世は神のためにあるからといって、神様のことをあまり重視するあまり、この世の中にいま生きている私たち人間の使命についての認識を少しでも欠くなら、これまた神様を喜ばせることにはならない、間違った方向に倒れてしまうものなんです。
鈴木雅明、(聞き手)加藤浩子『バッハからの贈り物』(春秋社 2002年)pp. 397-399
鈴木
バッハを理解には、宗教を乗り越えてとか、宗教とは無関係とか、そんなことを言うのは簡単だけど、それはやはりウソだと思うんです。だから、あなたがクリスチャンになればいいんです、と言えばいいけれど、バッハの音楽のためにクリスチャンになるのも、これまた変ですから.......。
加藤
理解するというとき、ほかにどんな可能性があるでしょうか。
鈴木
もちろん、それにはいろんなレヴェルがあります。レヴェルというか、それより人間です。人によってどいういう理解のしかたをするか、そういう問題です。結局はもっと広く言えば、バッハが語りかけることは、一人一人に別のことであって、それここそ同じ << マタイ >> を聞いても、ああ今日のオーボエはうまいなと思う人もいれば、そこに神のメッセージを聞き取ってクリスチャンになっちゃう人だっているわけですよ。それはもう、千差万別なんですね。それだけに演奏というものは公的なものだと思います。そういう意味で自分の責任として自分が思うことをベストを尽くして実現しなくてはと思いますが、でも、実際はその演奏のあとで、バッハの音楽によって何が引き起こされるのかはわからない。
加藤
卵が飛んでくるかもしれないし、だれかがクリスチャンになるかもしれない......。
鈴木
それは演奏がすばらしかったから、ではなく、バッハ音楽がすばらしかったから、というのでもないんです。ぼくの言い方からすれば、ただ、そこに神がはたらいていたからにすぎない。だから、その人は美しい夕焼けを居て感動してクリスチャンになるかもしれない。
加藤
何がきっかけになるかわからない、ということですね。
鈴木
ただ一つの動機としてバッハの音楽がもたらすこともありうる、そういうふうにいうことはできますが......。結局、何があってもパウロが言うように「誇るものは、主を誇れ」ということです。バッハの自筆譜の最後に必ずこう書かれている。全くその通りです。「Soli Deo Gloria(ただ神にのみ栄光あれ)」
鈴木雅明、(聞き手)加藤浩子『バッハからの贈り物』(春秋社 2002年)pp. 405-406
(引用終わり)
いかがでしょうか。まさに、ここに、私たちが考えなければならない課題が示されているのです。
バッハ・ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンという音楽祭がありました。今年のテーマはバッハの音楽だったので、ほとんどJ.S.バッハの音楽だけが演奏されましたが、4月28日から5月5日までの8日間で418(168ののコンサート有料コンサートを含む)のコンサートがひらかれ、のべ71万人が来場したとのことです。日本の状況からみて、大多数の人々はノンクリスチャンです。彼らがこれほどまでにキリスト教音楽であるバッハの音楽を大切にするとことは驚くほかはありません。その一方で、いわゆる福音派の多数の教会はバッハの音楽などはとうの昔に投げ捨ててしまいました。 いったい日本のキリスト教会に何がおこったのでしょうか?
丸の内のビル街の会場のあちらこちらで無料コンサートが開かれ、小さい子供たちが、じっとバッハの音楽に聞き入っていたことは驚きでした。

これだけ多くの人々がバッハの音楽をめあてに来ていました。日本人はバッハが実に好きなのです!
ワークショップ(レクチャー)のを見るために1時間30分以上ならんでいました。

09.05.2009. 06:55
Apologetics
2009年3月21日定例会にての学びの要約
Concerning Christian Apologetics
キリスト教弁証論に関わること
1)信者と不信者の関係
Absolute metaphysical(psychological)--epistemological/ethical Antithesis
絶対的存在論的―認識論的/倫理的反定律
Metaphysics(存在論)---psychology(心理)
人間は神の似姿に創られているという共通点
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Epistemology(認識論) Ethics(倫理)
信者と不信者は共通の土台に立っていないという対立点
信者と不信者の間には神の似姿に創られているという共通点がある。しかし知識・知恵そして、善悪(倫理)には共通点はない。----ホームスクールの出発点である!
なぜ信者と不信者がある程度共通の活動(学問、日常生活)ができるかというと、実は不信者は信者の立っている土台を無意識に盗用しているからである。
聖書に啓示されている神が全ての前提(pre-conditioning)となること。
不信者は神を前提としながら、神を否定している。 ローマ1:17-23
2) Transcendental argument(超越論的論法)
The impossibility of the contrary(そうでないということは不可能である)
--Greg Bahnsen は "The existence of God is objectively provable.(神の存在は客観的に証明可能である)" と言った
全ての人間は前提(presupposition)によって生きている。 全ての議論には大前提となる初期条件(pre-conditioning)がある。
つまり、全智全能の三位一体の神の存在を前提としなければ、存在論、認識論、倫理の土台が成立し得ない。そして、いかなる論証も存在しえない。つまり、神の存在を前提としないということ自体が成立しない。これは キリスト教弁証論のTranscendental Argument では"impossibility of contrary" と呼んている。 神は存在しないという命題にすでに、神の存在の前提が含まれてしまっている。(存在しないものは否定できない。)
"We must point out to [our opponents] that [non-theistic] reasoning itself leads to self-contradiction, not only from a theistic point of view, but from a non-theistic point of view as well... It is this that we ought to mean when we say that we reason from the impossibility of the contrary. The contrary is impossible only if it is self-contradictory when operating on the basis of its own assumptions."
Cornelius Van Til,A Survey of Christian Epistemology [Philadelphia: Presbyterian and Reformed, 1969], p. 204
3)人間を出発点とした近代哲学---最終的にscepticism(懐疑主義)へ
すべてを超越したまう父なる神が時間も存在も倫理も規定していることを否定するならば、我々は、自分が何者であるかがわからない。(昔から有名な哲学上の問題として、夜布団に入る前の自分と、朝起きたときの自分が同一人物であるということをどう証明するかという問題がある、これも、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」では証明できないのである。なぜなら、「我」を定義できないからである。自己同一性さえも保証されない。)
つまり、subjectivism(主観主義) は 結局のところ scepticism(懐疑主義)にいきつく。これが、デカルトからはじまった神に対する反逆の結果であり、神に反逆した哲学は、究極の虚無主義と非条理(因果律の完全な否定)に到達するのである。
4)本体論的三位一体論(Onltological Trinity)
つまり、じつは、キリスト教の聖書の啓示する三位一体の神を否定するのならば、我々は、自分の存在についても(Metaphysics)、知識・知恵を得ることについても(Epistemology)、善悪の判断をすることも(Ethics)全く不可能となる。
ではなぜ三位一体のまことの神を否定する人々が、日常生活をおくることが出来るかと言えば、かれらは、すべての前提を聖書の神から与えられていることを、自らのかたくなな心によって、神をしりつつ否定して覆い隠しているにすぎないからである。 これを Cornelius Van Til は 「不信者はborrowed capitalの上に立っている、父親の膝の上にのって父親のほおをたたいている子供のようなものだ」と表現した。
不信者が自分の主張する前提に忠実であるならば、本来は気が狂ってしまうはずである。(いわゆる統合失調状態となる以外にはない)。
というわけで、我々はいつも、三位一体の唯一の生けるまことの神の現実のなかで生きているのである。(ローマ1:18-23)
まことの神にして、まことの人であられる中保者なる、イエス・キリストの存在無しには超越者にして、絶対者なる、神を知ることができない。そこで、一神教が超越神のみを主張するならばその出発点において、存在の基盤を失う。(超越している神を知ることはできない。もし知ることができるのであれば、それは超越神ではない。)
イエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとにくることはありません。」ヨハネ14:6
聖霊なる神が存在しなければ、主がともにおられるという内在が成立しない。
そしてontological trinity の基盤なくしては、数学も成立しない。One and Manyの問題はキリスト教のみが解決できる。
参考文献としては下記がある。
Vern S. Poythress, A Biblical View of Mathematics
Chapter 9 of Foundation of Christian Scholarship(Vallecito, Calforia: Ross House Books 1979)p.161
1+1+1=3 ----これは本体論的三位一体論があるゆえに成立するのである。
1+1+1=1+1+1=1+1+1= .... こういう世界観も存在する。
1+1+1=0 全てが虚無であるという世界観ではこうなる。
5)Cosmological Argument
全ての事物を見るならば、そこにデザイナーがいることを考えざるを得ないーー>この宇宙には創り主がいるはずだ。--
問題点: その創り主を創ったのは? という反論が不信者からなされる。
というわけで、
まず Transcendental Argument
そして、その上で、Cosmological argument
となる。
まず、上記の Transcendental Argument の基盤の上にたって、初めて、いわゆるcosomological argumentは成立するのである。
6)聖霊なる神の内的照明
以上述べた、
客観的事実objective proof と
一人一人のクリスチャンは聖霊なる神の内的照明をいただいていることの
二つによって、クリスチャンの信仰の確信は成立しているのである。
7)聖書に基づく世界観の必要性
ところで、Greg Bahnsen は「神ではなくて、因果律(law of logic)を究極の基準にすれば良いではないか」という反論に対して、
「因果律のみでは、まったく不十分である。なぜなら、そこには世界観(Worldview)がないからである。」という答えをしている。
「聖書は神の言葉であり、すべての究極の規範・基準である」ことを否定するのは、キログラム原器に向かってなぜ、この金属のかたまりは1キログラムなのかと質問していることに等しい。
究極の基準は証明する必要がない。究極とはそういうことである。
22.03.2009. 02:38
Home Schoolers Visit
年末年始に、アメリカからのホームスクーラーが私たちを訪問しました。
ルーミス兄弟(スティーブンさんとベンさん)が私たちを訪れてくださいました。お二人はホームスクールの卒業生で、現在、コンピューター技術者として働いておられます。クリスチャンのアカデミー機関であるChalcedon Foundationのニューズレターの記事で私たちのことを読んで、領の友人のアメリカのホームスクーラーのたすけで、私たちと連絡をとることができました。彼らの訪問は私たちにとって大きな励ましでした。 主の、ご自身の御国を建てあげるために、クリスチャンを集め給う、主の摂理の御わざを見せていただいたことでした。
スティーブンさんとベンさんと、ともに、私たちは、クリスチャンの祝福された交わりが与えられました。スティーブンさんは教会の執事をしておられます。現代の社会でクリスチャンが果たすべき役割/影響力の必要性についての洞察を私たちと分かち合ってくれました。この世と妥協していくのではなく、神の律法を基礎とした聖書的な基準を生活/人生のすべての分野に、どのように適用すべきであるかについて話し合いました。 それゆえ、申命記6章にしるされているように、ホームスクーリングにおいて、両親は、家庭教育の基礎は、神に従う両親が子供を弟子訓練することであることであることを認識しなければならないのです。
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、
子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
(申命記6:4-9)
16.01.2009. 16:13
Selbredeさんの訪問
10月30日にThe Chalcedon Foundation のSelbredeさんが私たちを訪問してくださいました。
The Chalcedon Foundation の創設者である R. J. Rushdoony 博士はアメリカのホームスクーリング運動に多大な貢献をされた方です。ホームスクーラーとホームスクールをしている家庭は、神学的土台を据えることとキリスト教教育のヴィジョンを明確にすることにおいて、Rushdoony 博士に非常に多くを負っています。彼は、生涯、ホームスクーラーに暖かい支援をし続けました。そして、何よりも彼は、20世紀の偉大な神学者の一人です。
Rushdoony 博士が召された後、息子さんの Mark R. Rushdoony師がThe Chalcedon FoundationのPresident となりました。
Selbrede さんは 「食卓談話」のかたちで、神の律法、終末論、そして契約神学といった重要な事柄について、私たちの理解を深めてくださいました。 主はSelbredeさんの訪問によって私たちを励ましてくださいました。また私たちは主にある祝福された交わりを与えられました。 今後、主が私たちの交わりを深めて下さることを祈っています。
海ほたるにて

Selbredeさんとともに
31.10.2008. 06:33
Summary-August
8月定例会の要約
申命記の構造に由来する契約論
創造主なる神は私たちと、契約というしかたで関わってくださっている。しかるに、契約とは何かというと、これまた、神学書にはとおりいっぺんの形式的な説明があるだけである。静的な契約論しかない。しかし、聖書では著しくダイナミック(動的)な契約論が展開されている。
ローマ書が組織神学の本であると見るならば、申命記は契約の書である。申命記の構造は5つの部分からなっている。
1)神の超越と内在 申命記 1:1-5
2) 秩序/権威/上下関係/代表原則
( 申命記 1:6-4:49)
3) 法/基準/倫理 ( 申命記 5:1-26:19
4) 誓約/裁定/祝福と呪い(申命記. 27:1-30:20)
5) 相続/継続性 ( 申命記 31-34)
古代オリエントにおけるイスラエルを取り巻く他民族のいわゆる「大王の契約(suzerain treaties)」も、申命記の構造にその起原をおいているのである。
以下PaideiaNetworkのウェブサイトからの引用
http://paideianetwork.org/jpn/article/christianworldview/
まず、契約(Covenant)という重要な概念について簡単に見ておくことにいたします。
万物の創造者にして、唯一の生けるまことの三位一体にいまし給う神の言葉である聖書は契約の書です。 創造者である神が人間と契約をむすんでくださったのです。
この契約は神の一方的な恵みにより与えられ、神御自身が憐れみと恵みのうちに、神がこの契約を保持してくださっています。 契約は聖書を理解する上で根本的かつ基本的概念ですのでその性質について手短かに述べます。
まず創造者なる神は4つの契約によって社会を支配しておられます。それは下記の四つです。
1* ひとりひとりの個人との契約
2* 家庭との契約
3* 教会との契約
4* 国家との契約
契約の五特質
さて、Ray Suttonという牧師は、その著書That You May Prosper(あなたが栄えるために)において、契約には下記の5特質があると述べています。
1. 神の超越と内在(Transcendence and immanence)—神の主権
神は万物の創造者であり、今も万物を御自身の御旨によって支配しておられます。創造者なる神は御自身のお造りになった被造物と区別されます。いいかえると、被造物が神になることはありません。神は御自身の主権によって、すべてを支配しておられます。
同時に神は被造物と共におられます。神は被造物からまったくかけ離れて存在しておられるのではなく、むしろ、万物のすみずみにまで神のみわざがあらわれています。
2. 秩序/権威/上下関係/代表原則/説明責任(Hierarchy/Authority/Order/representation/accountability)
創造者にして支配者である神は、人間をひとりひとり直接的に支配しておられます。人間は神の命令に従わなければなりません。ひとりひとりの個人は自らのなすことを神に対して申し開きをする責任をおっています。
「私たちはみな神の審判の座の前にたたなければならない。次のように記されているからである。『主いい給う。我は生くるなり。 すべての膝は我が前にかがみ、すべての舌は神をほめ讃う。』それゆえ、私たちは、ひとりひとり神に対して申し開きをしなければならないのである。」(ローマ 14章10節 -12節)
その上で神は社会の秩序をたてられます。ですから全て社会における権威は創造者なる神に依存しています。
3. 法/基準/倫理(Law/Ethics/Standard)
創造者である神は、契約を実行していく際に、法的、倫理的な基準を制定されました。それが、聖書の御言葉であり、そして、特に聖書律法(Biblical Law)と呼ばれている法体系において、神は御自身の御旨を示されています。法なくして、契約は存在し得ないのです。そしてまた、神の定めた法はすべての被造物におよんでいます。それゆえ、すべての存在は必然的に倫理的な存在となるのです。
4. 誓約/裁定/祝福と呪い(Oath/Sanction/Blessing and Curse)
契約は誓約にもとづいて施行されます。創造者なる神に従い契約をまもるならば契約に定められた祝福が与えられ(申命記28章1節-14節)創造者なる神に反逆し契約を守らなければその契約に定められた呪いと裁きが与えられます。(申命記28章15節-68節)
別な言い方をするならば、創造者なる神は因果律を制定されました。すべての物事に原因と結果があります。創造者なる神がすべてを支配し給うゆえに、この因果関係は決して無作為(random)なものではなく、倫理的な意味をもち、それは究極的に神の栄光をあらわすものとなるのです。 個人も家庭も教会も国家も契約を守れば祝福され、契約をやぶれば裁かれ呪われるのです。
5. 相続/継続性(Inheritance/Continuity)
契約は神の御旨によって継続されます。どんなに時代がかわろうとも、神の言葉も神の契約も変わることがありません。
創造者なる神はこう宣言しておられます。
「我を憎む者に向かいては父の罪を子に報いて三代、四代におよぼし、我を愛し我が戒めを守る者には恵みを施して千代にいたるなり。」(申命記5章9-10節)
同時に私たちはどのような時代においても、時が良くても悪くても、創造者なる神との契約を守り続けていかなければならない責任があるのです。
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創造主はこの世界を契約的に治めておられる。であるから、この契約モデルは実は非常に実際的である 神学は基本的に日常生活に役立つ実際的なものなのである!!!
上記の契約の5特質をもっと噛み砕くと以下のようになる。
1)Who is in charge here?
(誰が仕切っている?)
2)To whom do I report?
(誰に説明責任をおっている。ボスはだれ?)
3)What are the rules?
(ルールは?)
4)What happens to me if I obey(disobey)?(したがえば/従わなければ、私に何が起こる?)
5)Does this outfit have a future?
(将来うまくいくのか?見通しは?)
ある意味で人間のなすすべての活動はこの5ポイントに関わっている。というのは創造主なる神は契約的に被造物と関わっておられるからである。家庭も教会も経済も政治も科学も哲学もすべてこの意味でこの5ポイントに関わっている。言い換えるとすべては契約的な意味を持っている。 契約神学の教えることはかくも広大な意味をもっており、それはすなわち聖書の教えるところそのものである。
十戒における契約の5特質
実は十戒にも、契約の5特質があらわされている。十戒は下記のようにクリスチャンが祭司として守る指針と王として守る指針の二つに分けられる。
Priestly Code(祭司規則)
第1戒 Transcendence(超越・内在): prohibition of false worship(偽りの礼拝を禁止する)
第2戒 Hierarchy 秩序/権威/上下関係/代表原則/説明責任 no graven images(representation)偽りの神々を代表する偶像に頭をさげてはならない。
第3戒 Ethics(倫理・法): prohibition against misusing God's name("no trespsassing" sign around His name)
神の御名を誤用乱用することは倫理的に違法であり悪である。
第4戒 Oath(祝福と呪い): Sabbath as a day of judgement(baptism, Lord's supper)毎週、主の日にわたしたちは祝福と裁き(懲らしめ)を受ける
第5戒 Successsion (相続・継続) honoring father and mother; long liife as the promised inheritance.父と母をうやまうことによって約束される祝福について。
Kingly Code(王規則)
第6戒 Transcendence(超越・内在)prohibition against murder(God's image)神の似姿である人を殺してはならない。
第7戒 Hierarchy(上下関係/権威/秩序)prohibition of adultery(Covenant authority) 家庭は 契約的に権威づけられているので姦淫によって破壊してはならない。
第8戒 Ethics(倫理/法)prohibition against theft
盗むことは違法であり、悪である。
第9戒 Oath(祝福と呪い/誓約)no false witness 偽りの誓約をしてはならない。
第10戒 Successsion (相続・継続) no coveting of another's property, which constitutes family inheritance 隣人の所有するもの(家庭の相続)をむさぼってはならない。
カルヴィン主義の5特質にみられる
契約の5特質
いわゆるカルヴィン主義の5特質は実はこの契約の5特質の要素と関わっている。カルヴィン主義の5特質は上述の契約の5特質の救済論における適用なのである。
1. Total depravity/innability / 全的堕落/無能力Ethics(man's)
法/基準/倫理
(神の法により人間は罪にさだめられる。)
2. Unconditional elction/Oath(God's)無条件的選び
祝福と呪い/誓約
(ある者たちは救いに選ばれある者は滅びに定められる。)
3. Limited atonement/Hierarchy(representation)
特定的贖罪
代表原則
(キリストは救いに選ばれたものたちのため(救われるものたちの代表として/恵みの契約の代表として)に特定的に十字架の上で身代わりの刑罰をうけられた。
4. Irresistible grace/Transcendence(Sovereignty)
不可抗的恩恵
神の超越と内在)—神の主権
(聖霊なる神が救いに導かれるとき罪人はその恵みに抵抗できない。)
5. Perseverance of the saints/Succession
聖徒の堅忍
相続/継続性
いったん救われたものは永遠に救われている。
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契約の五特質の展開
キリスト信仰そのものがこの契約の5特質と関わっている。
1 神の主権-- 神の超越と内在/神の主権
2 神の御言葉の絶対的権威
-- 権威/ 秩序/上下関係
3 神の律法(theonomy) ---
法/基準/倫理
4 契約的世界観—
誓約/裁定/契約に伴う祝福と呪い
5 後千年王国
—神の御国の相続・継続
上記をもっと詳しくすると
1 神の主権---Calvinismカルヴィン主義神学/世界観
神はその主権によってすべてを保持し支配しておられる。
2 神の御言葉の絶対的権威---presuppositionalism episitemological self-consciousness ヴァン・ティルの前提論、認識論----認識論的/倫理的自覚
聖書の御言葉がすべての出発点である。
3 神の律法(theonomy) 1st. 2nd, and 3rd use of the Law of God 律法の第1用法、第2用法、第3用法、神の律法は現代社会にも適用される。律法を守ることによって救われるのではない。しかし神の律法はすべての分野における基準となる。
4 契約的世界観 Covenantal world and life view / covenantal community, family integrated church/ casuistric approach to any subject
契約共同体としての教会。教会は家庭があつまって建て上げられていくのであって、いわゆる小グループによって家庭を細分化・解体する方法によってたてあげられるべきものではない。
御言葉を解き明かし、かつそれを実際にすべての分野に適用し、すべてを聖書的世界観によって判断していかなければならない。すなわち聖書にもとづく決疑論を持つことが必要である。
5 後千年王国 Partial preterism/ Optimistic millennialism
教会は、歴史の完成にむかって勝利の歩みを続ける。
御心が天になるように地においてもなされる。神の御国は前進しているのである。 紀元1世紀に比べればクリスチャンの数は圧倒的に多い。それだけでも神の御国は前進している。紀元2世紀にバッハの音楽はなかった。
教会は常にこの世に敗北し続けるなどという終末論は20世紀の妥協した教会の弱さから出てきた。ピルグリムもピューリタンも、たとえばジョンノックスもスポルジョンも皆、キリストの御国のこの地上における勝利を信じて疑わなかった。19世紀の世界宣教は 後千年王国の教えによってなされた。
キリスト教会の歴史において、もっとも輝かしい働きがなされたとき、それはいつもクリスチャンたちが神の御国と教会の勝利を信じていた( 後千年王国説に立っていた)時代であった。
多くの人々がヨハネの18章36節の主の言葉を誤解している
イエスは答えた。「わたしの国はこの世のものではありません。」
この言葉は神の御国はこの世と何の関わりもなく、クリスチャンの心の中にのみあるとか、教会の中だけにあるという意味ではない。
ここの主の御言葉は元来「わたしの国はこの世から出たものではありません。」と訳すべきところでる。
ギリシャ語の「エク」という前置詞は英語でいうところのfromである。
つまり神の御国はこの世からこの世の考え方からスタートしたのではないということを主はおっしゃっているのである。人間の基準で動くのではなく、神の主権のもとに、神の御旨のもとに建て上げられる神の御国の支配はこの地上において見える形で実現するのである。
「わたしには天においても、地においても、一切の権威が与えられてます。」マタイ28:18
キリストの支配は歴史において、個々のキリスト者をとおして、クリスチャンの家庭をとおして、教会をとおして、歴史の完成にむかって少しずつ世に対して(途中一進一退することはあっても)勝利しながら、拡大していくのである。
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以下PaideiaNetworkのウェブサイトからの引用
http://paideianetwork.org/jpn/article/christianworldview/
すべての社会制度は創造者なる神の主権的支配のもとにあることが聖書にかかれています。
創造者なる神は無限、永遠、不変であられます。
無限であるゆえに唯一の神なのです。また神はすべてを主権的に支配しておられます。
神に従うのでもなく、神に反逆するのでもないといった中立の立場は存在しません。
Robert Thoburn という教育者は次のように述べています。
「中立の立場が存在するなどというのは空想にすぎない。.... 中立の立場とか中立領域などというものは存在しない。 全ての分野/領域は(創造者にして主権者である)神の関与と支配のもとにあり、それゆえ、神の関与と支配の及ばない分野/領域などというものは存在しない。 もし中立領域が存在することを認めるならば、それは、神が全宇宙のほんの一部に閉じ込められていると主張することを意味するのである。」Robert Thoburn, The Children Trap (Ft. Worth Texas: Dominion Press, 1986), p. 82
こういうわけで、キリスト教的世界観か非キリスト教的世界観かの二つの世界観しか存在しないことになります。現代社会の混迷の原因は絶対的存在である創造主なる神を否定し、その結果として、すべての価値基準を相対的にとらえてしまう相対主義が広がってしまったことにあり�ワす。倫理も道徳も相対的なものとなってしまったので、いまや価値判断の基準がなくなってしまっています。
この混迷の状況は単に伝統的価値観と呼ばれているものに戻っても解決しません。というのは伝統的価値観もしょせんは人間のつくりだしたものだからです。
創造者なる神の御言葉のみが不変であり、普遍なのです。 聖書にはすべての分野における解決が示されています。 そこに、わたしたちの進むべき道が示されています。
わたしたちは、創造主なる神につくられた被造物にすぎません。神にいい逆らうことは許されていないのです。
「ああ人よ、神にいい逆らうあなたは何者なのか。つくられた者がつくった者に対して、『なぜ、あなたは私をこのようにつくったのか?』といえるだろうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりを 尊い目的に用いる器にも、賤しい目的に用いる器にもする権能をもっていないのだろうか。」(ローマ 9章20 -21節)
すべての人は前提によって生きています。
R. J. Rushdoony という神学者は次のように述べています。
「もし人が自分の前提に忠実に論理的であるならば、例えばもし仏陀の教えに従い、無(nothingness)という前提から出発するならば、彼は無に終わる。 しかし人間が論理的であることは稀である。(創造者なる神を)信じないという前提に忠実であるならば、それは何も知ることができないという結論にいきつくのである。
ところが罪人はこれを認めない。 彼はこう主張するのである。すなわち 『神に関することや神を指し示す状況に関してだけは何も知ることができない』と。 そして、彼は神に関すること以外については、いつも(創造者なる)神のみが与えることのできる宇宙を当たり前の前提としているのである。そうしていながら、その宇宙をつくった神を否定するのである。.......
もし人が事実のみから出発するならば、すべての事実を徹底的に網羅的に一つ残らず調べかつ極めない限りなにも知ることはできないのである。」R. J. Rushdoony, "The Quest for Common Ground" in Gary North(ed.), Foundation of Christian Scholarship (Vallecito, California: Ross House Books 1979), p 33
私達はリンゴが木から地面に向かって落ちることを当たり前と考えています。この「当たり前と考えるということ」が前提なのです。 もし事実を調べ確かめ検証することから真理にいたらなければならないと主張するならば、世界中のすべてのリンゴの木を調べ尽くさなければならないのです。そうしない限り「リンゴが木から地面に向かって落ちる」と断言することはできません。こういうことをしていると学問は成立しません。つまり私達は知識を得ることができないのです。
創造者なる神がすべてをつくり、今もなお支配しておられるという前提がないかぎり、わたしたちは、何もできません。 この前提なしに私達は生きていくことは不可能です。
罪人が創造者なる神を否定することは、実は創造者なる神が存在することを認めているからなのです。存在しないものを否定することはできません。
聖書にはこのように書かれています。
「神の怒りは、不義をもって真理を阻む人々のもろもろの不敬虔と不正に対して天から啓示されているからである。 なぜなら、神について知りうるべきことは彼等に明らかであるからだ。神がこれを彼等に示されたのである。なぜなら神の、目にみえない属性、すなわち永遠の力と神性は 世界が創造されてから被造物において はっきりと認められ理解されるがゆえに、彼等が言い逃れることはできないのである。」(ローマ1章18節-20節)
以上、社会制度について、聖書に示されている世界観にもとづいて、短く考察をしてみました。
これを理想論として片付けるべきではありません。
聖書において 創造主であられる神は個人、家庭、教会、社会が神に従うことを命じています。創造主なる神の言葉の真理を前提としないかぎり、私達は何もできないのです。私達ひとりひとりの個人の人生において、家庭において、教会において、国家において、その他もろもろの組織において、主権者なる神が指し示す基準がなくなってしまえば、私達の前には荒廃と滅亡がもたらされるだけなのです。創造主なる神なき社会は死と滅亡に向かいます。そして、今まさに、この現代において、私達は社会が創造主なる神に反逆し、死と滅亡の道に向かっていこうとするのを見ています。
創造主にして絶対主権者なる生ける唯一のまことの神はかつて、モーセをとおしてイスラエルの民に対して次のように命ぜられました。 そして、この命令は現代に生きる私たちにも与えられているのです。
「見よ、我、今日(きょう)、命と幸い および 死と災いを 汝の前におけり。すなわち、我、今日 汝(なんじ)にむかいて汝の神 主を愛し、その道に歩み、その戒めと律法(おきて)を守ることを命ずるなり。
しかなさば、汝 生きながらえてその数多くならん。 また汝の神 主、 汝がゆきて、得るところの地にて汝を祝福(めぐみ)給うべし。
されど、汝もし心をひるがえして、聞き従わず、誘(いざな)われて他の神々を拝みまたこれに仕えなば、我、今日、汝らに告ぐ。汝らは必ず滅びん。..............
我 今日、天と地を呼びて証(あかし)となす。 我は生命(いのち)と死 および 祝福(めぐみ)と呪詛(のろい)を汝らの前に置けり。
汝、生命(いのち)を選ぶべし。
しかせば、汝と汝の子孫 生存(いきながら)うることを得ん。(申命記 30章15節-19節)」
参考文献
DeMar, Gary. God and Government Vol. I . Atlanta, Georgia: American Vision Inc. , 1990
DeMar, Gary. Ruler of The Nations. Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1987
North, Gary. Liberating Planet Earth. Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1987
North, Gary. The Dominion Covenant: Genesis. Tyler, Texas: Institutes of Christian Economics, [1982]1987
North, Gary. Tools of Dominion. Tyler, Texas: Institutes of Christian Economics, [1990]1997
Rushdoony, Rousas John. By What Standard? Tyler, Texas: Thoburn Press, [1958] 1983
Rushdoony, Rousas John. Systematic Theology in 2 volumes. Vallecito, California: Ross House Books, 1994
Rushdoony, Rousas John. The Institutes of Biblical Law. The Presbyterian and Reformed Publishing Company, 1973.
Rushdoony, Rousas John. The One and The Many. Fairfax, Virginia: Thoburn Press,[1971]1978
Rushdoony, Rousas John. This Independent Republic. Fairfax, Virginia: Thoburn Press, [1964]1978
Sutton, Ray. That You May Prosper. Tyler, Texas: Institutes of Christian Economics, 1987
Thoburn, Robert. The Children Trap. Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1986
17.08.2008. 05:41
家族旅行





22.03.2008. 08:33
2/16/08 ホームスクーリング入門セミナー
「時を知ること」
毎月第三土曜日に行われるホームスクーリング入門セミナーが始まってから一年以上たちました。
2008年2月16日は、私たちの生きている時代が大きな変革の時であることについて考えました。
1歴代誌 12:32 にイッサカル族は時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っていたと記されています。
クリスチャンはイッサカル族の子らのように時を知る必要があります。私たちを取り巻く状況は20世紀後半から大きく変化していいます。時に私たちは、十分な情報を得るためにエコノミストの書く本さえ読まなければなりません。今回私たちは、「企業参謀」「見えない大陸」などの著者として知られているエコノミスト大前研一氏による"親が反対しても、子供はやる" という教育論の本を使った学び(キリスト教世界観からの考察もしつつ)をしました。
私たちはキリスト教世界観に立っているので、いま世界で何がおこっているかについて、はっきりと理解することができます。
今回、私たちは、改めて、情報化社会の出現によって、ホームスクーリングというが時代の最先端をいく教育方法であることを再認識しました。
16.02.2008. 04:32
Christian Liberty and Liberty of Conscience
キリスト者の自由および良心の自由
キリスト者の自由および良心の自由はホームスクーリングの土台を形成している要素である。
ウェストミンスター信仰告白 第20章
(第二ロンドン信仰告白 第21章)
キリスト者の自由および良心の自由について
第1項
1)キリストが信者のために自由を買い取って下さったこと
2)この自由は罪の咎とのろい、この世を愛すること、サタンの奴隷であること、罪の支配、患難の災い、死のとげ、墓の勝利、永遠の滅びの刑罰からの自由
神に近づく自由、神に従う自由、神を愛する自由
3)新約の時代と旧約の時代の神の民は同じ質の自由をもっており、その度合いが違うだけであること
奴隷的意志
救われていない不信者は自由にまことの神を愛することができない。罪の奴隷となっている。
ヨハネ8:36 ローマ8:21
−1キリスト者は救いに関して律法の遵守から自由にされているーキリストのあがないのみわざによって。
−2この自由は罪の支配からキリスト者を自由にした。 ローマ6:22 キリスト者はサタンの支配のもとにいない。 艱難や災い、そして罪に対する懲らしめも 信者の益と神の栄光のためと書かれている。ローマ8:28 死がもっていた刑罰の性質もキリスト者からは取り除かれた。1コリント15:54−57
この自由は放縦とは異なる。 ガラテヤ 5:13
自由とは罪からの自由と神の僕となることである。
サタンは放縦を自由の偽物として提供する。
自由は神の律法から与えられる。神の律法を無視ないし廃棄しようとするならば(それは不可能であるが)それにかわる人間の法が必ず出現する。神の律法は神の愛の表現である。ガラテヤ3:21、ヘブル8:10
第2項
1)神のみが良心の支配主であること
2)聖書の御言葉のみが良心の規範であること
3)神の御言葉に反するないし、神の御言葉に付け加えられた(御言葉に含まれていない)人間の教えや法は良心を束縛するいかなる権威をも持たない。
4)そのようなものに良心が束縛されることを ゆるしてしまうならば、それは良心の自由に対する裏切り行為であり、神のみが主であることを否定する事である。なぜなら良心は神から与えられているものだからである。
5)キリスト者の自由は無律法主義とは異なる。
この第2項は宗教改革の偉大なる成果である。「人に従うよりは神にしたがうべきである。」使徒5:29 初代教会、アンブロシウス、ルター、カルヴァン、ジョンノックス、ピルグリムなどの例 1コリント7:23「汝らは価をもて買われたるものなり。人の奴隷となるな。」
政教分離ーー政府(国家)と教会の分離
国家による教育統制はこの原則に反する
教会のなかにもこの良心についての原則に反する実践がなされていることがある。時々、教会においても、何か、ある種の規則がつくられ、それがひとりひとりのキリスト者の良心を束縛することがある。そのような例としては、
−1その規則が、神の御言葉に反する場合。 たとえば、コーヒーを禁止する。肉食を禁止する、などなど聖書において認められている自由を、禁止する。
ローマ14:14、20
あることについて、それが誤り、ないし罪であると良心に基づいて(確固たる理由を説明できないとしても)自覚しているにもかかわらず、そのことを外的な規制があるので、「ながいものにはまかれろ」精神で、行うということはいついかなるときでも正しくない事である。
ー2その規則が神の御言葉に何かを付け加えるような場合
教会がいろいろなことを義務として付け加えてしまう場合、例えば決められた時に断食をすること、最低年一回は告解をおこなうこと、など
われわれは罪人なので、気をつけないと他の兄弟の良心を踏みにじったり、与えられた自由を放縦に変えようとしたり、する。我々は「小さな教皇」を自分の心の中に育てようとする傾向がある。
ローマ14章において、クリスチャンはお互いの良心を尊重するように命ぜられている。
キリスト者の自由および良心の自由はクリスチャンが常に御言葉によって養われ、成長しているときにのみ可能となる。 教会指導者たちと信徒たちは互いに養い合う関係でもある。そのような状況において初めて、良心の自由は保たれる。教会が独裁制ないし、無政府状態であるときには、良心の自由は尊重されない。
規制原理という原則---改革派信仰の基本原則の一つ
狭い意味では、礼拝において、聖書で命ぜられていないことは禁止されている。(多くの教会では それはゆるされている と解釈されてしまう)
広い意味では、守るべき信仰における基本的な立場、教え
終末論、洗礼論(どのくらいの量の水をバプテスマの時に使うかなど)、は規制原理にはならない。終末論、洗礼論について聖書はある程度の解釈の幅を認めている。規制原理を保ちつつ、個々のクリスチャンは信仰と良心の自由を与えられている。
規制原理と個人の信仰の良心自由のバランスをとることの重要性
第3項
キリスト者は正しい自由をもって神に仕える、それは下記のようなこととなる。
−1 神の律法に対する正しい理解 十戒をはじめ神の律法(およそ600ある判例法も含めて)
−2 何かをなすときに そのなす時、そのなすときの状況、文脈、経緯、を正しく判断しおこなう。 タイミングの重要性 2コリント6:2
ピアノをひくことは基本的によいことであるが、例えば夜中にひけるか。
ついきのうまで、神の敵が使っていた音楽を、歌詞を変えて礼拝に使う事は適切か?
ー3 正しい動機なり意図をもってその事をおこなうのか?
神の栄光のためになすのか、自分の利得のために事をなすのか?
第4項
国家と教会のバランス、
3つの社会制度 下記を参照ください。
http://paideianetwork.org/jpn/article/christianworldview/
家庭、教会、国家
国家の教育に対する統制、教会の家庭に対する統制、家庭が教会を統制してしまう、などなど
一と多の原則
本体論的三位一体論がすべての存在の土台、根底にある。
参考として、
ウェストミンスター信仰告白
第2章 神について、また聖三位一体について
3 神の統一性の中に、ひとつの本質、力、永遠性をもつ三つの人格がある。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神である(1)。み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる(2)。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る(3)。
1 ?ヨハネ5:7、マタイ3:16,17、マタイ28:19、?コリント13:13(*)
*欽定訳は?コリント13:14
2 ヨハネ1:14,18
3 ヨハネ15:26、ガリラヤ4:6
参考文献
G.I.Wiiliamson, The Westminster Confession of Faith for Study Classes
(Presbyterian and Reformed Publishing Co)pp.147-157
17.11.2007. 07:01
3要素
教会を建て上げる3要素。- 家庭を土台とした教会形成
- もてなしをすること
- 聖書の御言葉に基準をおくこと
教会を破壊してしまう3要素
- 家庭を分断するようなセルグループ(小グループ)による教会形成
- イベントをたくさんすること
- この世的なビジネスの手法(教会の活動を消費者サービスのように考えて)を導入しそこに基準をおくこと

