Apologetics
2009年3月21日定例会にての学びの要約
Concerning Christian Apologetics
キリスト教弁証論に関わること
1)信者と不信者の関係
Absolute metaphysical(psychological)--epistemological/ethical Antithesis
絶対的存在論的―認識論的/倫理的反定律
Metaphysics(存在論)---psychology(心理)
人間は神の似姿に創られているという共通点
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Epistemology(認識論) Ethics(倫理)
信者と不信者は共通の土台に立っていないという対立点
信者と不信者の間には神の似姿に創られているという共通点がある。しかし知識・知恵そして、善悪(倫理)には共通点はない。----ホームスクールの出発点である!
なぜ信者と不信者がある程度共通の活動(学問、日常生活)ができるかというと、実は不信者は信者の立っている土台を無意識に盗用しているからである。
聖書に啓示されている神が全ての前提(pre-conditioning)となること。
不信者は神を前提としながら、神を否定している。 ローマ1:17-23
2) Transcendental argument(超越論的論法)
The impossibility of the contrary(そうでないということは不可能である)
--Greg Bahnsen は "The existence of God is objectively provable.(神の存在は客観的に証明可能である)" と言った
全ての人間は前提(presupposition)によって生きている。 全ての議論には大前提となる初期条件(pre-conditioning)がある。
つまり、全智全能の三位一体の神の存在を前提としなければ、存在論、認識論、倫理の土台が成立し得ない。そして、いかなる論証も存在しえない。つまり、神の存在を前提としないということ自体が成立しない。これは キリスト教弁証論のTranscendental Argument では"impossibility of contrary" と呼んている。 神は存在しないという命題にすでに、神の存在の前提が含まれてしまっている。(存在しないものは否定できない。)
"We must point out to [our opponents] that [non-theistic] reasoning itself leads to self-contradiction, not only from a theistic point of view, but from a non-theistic point of view as well... It is this that we ought to mean when we say that we reason from the impossibility of the contrary. The contrary is impossible only if it is self-contradictory when operating on the basis of its own assumptions."
Cornelius Van Til,A Survey of Christian Epistemology [Philadelphia: Presbyterian and Reformed, 1969], p. 204
3)人間を出発点とした近代哲学---最終的にscepticism(懐疑主義)へ
すべてを超越したまう父なる神が時間も存在も倫理も規定していることを否定するならば、我々は、自分が何者であるかがわからない。(昔から有名な哲学上の問題として、夜布団に入る前の自分と、朝起きたときの自分が同一人物であるということをどう証明するかという問題がある、これも、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」では証明できないのである。なぜなら、「我」を定義できないからである。自己同一性さえも保証されない。)
つまり、subjectivism(主観主義) は 結局のところ scepticism(懐疑主義)にいきつく。これが、デカルトからはじまった神に対する反逆の結果であり、神に反逆した哲学は、究極の虚無主義と非条理(因果律の完全な否定)に到達するのである。
4)本体論的三位一体論(Onltological Trinity)
つまり、じつは、キリスト教の聖書の啓示する三位一体の神を否定するのならば、我々は、自分の存在についても(Metaphysics)、知識・知恵を得ることについても(Epistemology)、善悪の判断をすることも(Ethics)全く不可能となる。
ではなぜ三位一体のまことの神を否定する人々が、日常生活をおくることが出来るかと言えば、かれらは、すべての前提を聖書の神から与えられていることを、自らのかたくなな心によって、神をしりつつ否定して覆い隠しているにすぎないからである。 これを Cornelius Van Til は 「不信者はborrowed capitalの上に立っている、父親の膝の上にのって父親のほおをたたいている子供のようなものだ」と表現した。
不信者が自分の主張する前提に忠実であるならば、本来は気が狂ってしまうはずである。(いわゆる統合失調状態となる以外にはない)。
というわけで、我々はいつも、三位一体の唯一の生けるまことの神の現実のなかで生きているのである。(ローマ1:18-23)
まことの神にして、まことの人であられる中保者なる、イエス・キリストの存在無しには超越者にして、絶対者なる、神を知ることができない。そこで、一神教が超越神のみを主張するならばその出発点において、存在の基盤を失う。(超越している神を知ることはできない。もし知ることができるのであれば、それは超越神ではない。)
イエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとにくることはありません。」ヨハネ14:6
聖霊なる神が存在しなければ、主がともにおられるという内在が成立しない。
そしてontological trinity の基盤なくしては、数学も成立しない。One and Manyの問題はキリスト教のみが解決できる。
参考文献としては下記がある。
Vern S. Poythress, A Biblical View of Mathematics
Chapter 9 of Foundation of Christian Scholarship(Vallecito, Calforia: Ross House Books 1979)p.161
1+1+1=3 ----これは本体論的三位一体論があるゆえに成立するのである。
1+1+1=1+1+1=1+1+1= .... こういう世界観も存在する。
1+1+1=0 全てが虚無であるという世界観ではこうなる。
5)Cosmological Argument
全ての事物を見るならば、そこにデザイナーがいることを考えざるを得ないーー>この宇宙には創り主がいるはずだ。--
問題点: その創り主を創ったのは? という反論が不信者からなされる。
というわけで、
まず Transcendental Argument
そして、その上で、Cosmological argument
となる。
まず、上記の Transcendental Argument の基盤の上にたって、初めて、いわゆるcosomological argumentは成立するのである。
6)聖霊なる神の内的照明
以上述べた、
客観的事実objective proof と
一人一人のクリスチャンは聖霊なる神の内的照明をいただいていることの
二つによって、クリスチャンの信仰の確信は成立しているのである。
7)聖書に基づく世界観の必要性
ところで、Greg Bahnsen は「神ではなくて、因果律(law of logic)を究極の基準にすれば良いではないか」という反論に対して、
「因果律のみでは、まったく不十分である。なぜなら、そこには世界観(Worldview)がないからである。」という答えをしている。
「聖書は神の言葉であり、すべての究極の規範・基準である」ことを否定するのは、キログラム原器に向かってなぜ、この金属のかたまりは1キログラムなのかと質問していることに等しい。
究極の基準は証明する必要がない。究極とはそういうことである。
22.03.2009. 02:38

