Christian Liberty and Liberty of Conscience

キリスト者の自由および良心の自由

キリスト者の自由および良心の自由はホームスクーリングの土台を形成している要素である



ウェストミンスター信仰告白 第20章
(第二ロンドン信仰告白 第21章)
キリスト者の自由および良心の自由について



第1項

1)キリストが信者のために自由を買い取って下さったこと
2)この自由は罪の咎とのろい、この世を愛すること、サタンの奴隷であること、罪の支配、患難の災い、死のとげ、墓の勝利、永遠の滅びの刑罰からの自由
神に近づく自由、神に従う自由、神を愛する自由

3)新約の時代と旧約の時代の神の民は同じ質の自由をもっており、その度合いが違うだけであること

奴隷的意志
救われていない不信者は自由にまことの神を愛することができない。罪の奴隷となっている。

ヨハネ8:36 ローマ8:21

−1キリスト者は救いに関して律法の遵守から自由にされているーキリストのあがないのみわざによって。
−2この自由は罪の支配からキリスト者を自由にした。 ローマ6:22 キリスト者はサタンの支配のもとにいない。 艱難や災い、そして罪に対する懲らしめも 信者の益と神の栄光のためと書かれている。ローマ8:28 死がもっていた刑罰の性質もキリスト者からは取り除かれた。1コリント15:54−57

この自由は放縦とは異なる。 ガラテヤ 5:13
自由とは罪からの自由と神の僕となることである。
サタンは放縦を自由の偽物として提供する。
自由は神の律法から与えられる。神の律法を無視ないし廃棄しようとするならば(それは不可能であるが)それにかわる人間の法が必ず出現する。神の律法は神の愛の表現である。ガラテヤ3:21、ヘブル8:10  

第2項

1)神のみが良心の支配主であること
2)聖書の御言葉のみが良心の規範であること
3)神の御言葉に反するないし、神の御言葉に付け加えられた(御言葉に含まれていない)人間の教えや法は良心を束縛するいかなる権威をも持たない。
4)そのようなものに良心が束縛されることを ゆるしてしまうならば、それは良心の自由に対する裏切り行為であり、神のみが主であることを否定する事である。なぜなら良心は神から与えられているものだからである。
5)キリスト者の自由は無律法主義とは異なる。

この第2項は宗教改革の偉大なる成果である。「人に従うよりは神にしたがうべきである。」使徒5:29 初代教会、アンブロシウス、ルター、カルヴァン、ジョンノックス、ピルグリムなどの例 1コリント7:23「汝らは価をもて買われたるものなり。人の奴隷となるな。」

政教分離ーー政府(国家)と教会の分離
国家による教育統制はこの原則に反する
教会のなかにもこの良心についての原則に反する実践がなされていることがある。時々、教会においても、何か、ある種の規則がつくられ、それがひとりひとりのキリスト者の良心を束縛することがある。そのような例としては、

−1その規則が、神の御言葉に反する場合。 たとえば、コーヒーを禁止する。肉食を禁止する、などなど聖書において認められている自由を、禁止する。
ローマ14:14、20 
あることについて、それが誤り、ないし罪であると良心に基づいて(確固たる理由を説明できないとしても)自覚しているにもかかわらず、そのことを外的な規制があるので、「ながいものにはまかれろ」精神で、行うということはいついかなるときでも正しくない事である。

ー2その規則が神の御言葉に何かを付け加えるような場合
教会がいろいろなことを義務として付け加えてしまう場合、例えば決められた時に断食をすること、最低年一回は告解をおこなうこと、など

われわれは罪人なので、気をつけないと他の兄弟の良心を踏みにじったり、与えられた自由を放縦に変えようとしたり、する。我々は「小さな教皇」を自分の心の中に育てようとする傾向がある。

ローマ14章において、クリスチャンはお互いの良心を尊重するように命ぜられている。

キリスト者の自由および良心の自由はクリスチャンが常に御言葉によって養われ、成長しているときにのみ可能となる。  教会指導者たちと信徒たちは互いに養い合う関係でもある。そのような状況において初めて、良心の自由は保たれる。教会が独裁制ないし、無政府状態であるときには、良心の自由は尊重されない。


規制原理という原則---改革派信仰の基本原則の一つ

狭い意味では、礼拝において、聖書で命ぜられていないことは禁止されている。(多くの教会では それはゆるされている と解釈されてしまう)

広い意味では、守るべき信仰における基本的な立場、教え
終末論、洗礼論(どのくらいの量の水をバプテスマの時に使うかなど)、は規制原理にはならない。終末論、洗礼論について聖書はある程度の解釈の幅を認めている。規制原理を保ちつつ、個々のクリスチャンは信仰と良心の自由を与えられている。

規制原理と個人の信仰の良心自由のバランスをとることの重要性

第3項

キリスト者は正しい自由をもって神に仕える、それは下記のようなこととなる。

−1 神の律法に対する正しい理解  十戒をはじめ神の律法(およそ600ある判例法も含めて)

−2 何かをなすときに そのなす時、そのなすときの状況、文脈、経緯、を正しく判断しおこなう。  タイミングの重要性 2コリント6:2  
ピアノをひくことは基本的によいことであるが、例えば夜中にひけるか。
ついきのうまで、神の敵が使っていた音楽を、歌詞を変えて礼拝に使う事は適切か?

ー3 正しい動機なり意図をもってその事をおこなうのか?
神の栄光のためになすのか、自分の利得のために事をなすのか?

第4項

国家と教会のバランス、

3つの社会制度  下記を参照ください。

http://paideianetwork.org/jpn/article/christianworldview/

家庭、教会、国家

国家の教育に対する統制、教会の家庭に対する統制、家庭が教会を統制してしまう、などなど

一と多の原則

本体論的三位一体論がすべての存在の土台、根底にある。

    参考として、

ウェストミンスター信仰告白 

第2章 神について、また聖三位一体について  

3 神の統一性の中に、ひとつの本質、力、永遠性をもつ三つの人格がある。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神である(1)。み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる(2)。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る(3)。

      1 ?ヨハネ5:7、マタイ3:16,17、マタイ28:19、?コリント13:13(*)
         *欽定訳は?コリント13:14 
      2 ヨハネ1:14,18
      3 ヨハネ15:26、ガリラヤ4:6



参考文献

G.I.Wiiliamson, The Westminster Confession of Faith for Study Classes 

(Presbyterian and Reformed Publishing Co)pp.147-157 

17.11.2007. 07:01