Dialogue on Bach's music


バッハからの贈り物という本のなかでの鈴木雅明氏と加藤浩子氏の対談がまとめられた「バッハからの贈り物」という本から引用いたします。



(引用開始)

鈴木

ところが、バッハを理解するためには、キリスト教の信仰が必要か、と問われたら、ぼくの立場からは、ぜひとも必要ですと応えるしかないんですね。ぼく自身のバッハ理解を自分の口から言う以上、ぼくはキリスト教の立場でものをみていますからね。だから、バッハはこうです、というひとつの像があるとして、その同じ像を共有したいと思ったら、キリスト教という点を共有しないではありえないんです。キリスト教のことを少しは知らなくてはバッハ理解はできないという人もいますが、そうではないんですね。”知る”かどうかではなく、問題は、”信じる”かどうかだけです。 前から言ってきていますように、そもそも問題は知識ではないんです。



加藤

知っていることを確認するとか、楽譜をいろいろつきあわせて、ああでもないこうでもないと詮索するのとは......

 

 

鈴木

そもそもクリスチャンでない人がキリスト教を理解する必要はないですね。なぜなら、キリスト教を”理解する”のは知識ですることではありませんから。

 

 

加藤

クリスチャンだからといって、バッハ理解が深いといえるのでしょうか。

 

 

鈴木

それは、全然言えません。 日本のキリスト教会内部の人に対しても伝えたいメッセージがぼくにはあるんですが、なかなかうまくいきません。それは本質的な点においては価値観を共有できる人たちのはずなのに、バッハに対する、あるいは音楽に対する感受性の欠如というか、無関心の度合いが甚だしい。もちろん、そうでない人もごく少数いますが、一般論からすると、日本のキリスト教会というのは、キリスト教的伝統を受け継いで入るけれども、それに伴う文化観については極めて乏しいんですね。キリスト教の信仰的なことと、この世をどのように評価し、この世の文化をどのように受け入れ、また享受するかという価値観とは微妙に違うんですよ。
   キリスト教的な立場にあっても、プロテスタントとカトリックとももちろん違うし、、バッハ時代の言葉でいえば、同じプロテスタントとカトリックとももちろんちがうし、バッハ時代の言葉でいえば、同じプロテスタントでもピエティスムス的(敬虔主義)な人々というのは、当時から音楽にはあまり興味をもっていなかった。言ってみれば、この世というのは罪にまみれたものであって、いずれは滅びるものlなので、自分自身の救いのほうに大きな関心を置く。それはそれで、ある意味で正しいとも思うのですが、では、いま現実に生きているこの世の中をどう評価するか、ここにも何らかの意味があるのかどうか、という問題が起こります。
   そこで、ほんとに微妙な問題なんだけれど、考えかたが分かれるんです。そして、ぼくは幸か不幸か、バッハをやっていながらルター派ではなく、カルヴァン派(改革派)の人間なんですね。カルヴァンはどう言ったかというと、カルヴァンはこの世を認めるわけです。この世の文化というものを認める。神は天地創造をされた後に、この世を「よし」とされた。そして、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命ぜられた。われわれはこれを「文化命令」といっているんですが、要するにこの世の中で活動せよ、と命令を下したわけです。

 

 

加藤

それに従って、活動されておられるんですね。

 

 

鈴木

まあ、大げさに言えばそういうことです。だから、ビールを飲むのも主のため、けんかをするのも主のため、仕事をするのも主のため。そういうさまざまな、すべてのことを含めたこの世の活動を”よし”とされて祝福された、というふうにぼくは思うわけです。こうした認識が共通で、かつバッハの音楽にも理解と感受性をもって(別にバッハは嫌いでも感受性はありうると思うから、それはそれでいいんですが)、バッハについて知りたいと思うような地平をいっしょに共有できる人は、ほんとに少ない。
   だから、ぼくはつねにそういう意味でサーカスの綱渡りをしているつもりでいるんです。自分の歩んでいる道のこちらに倒れても、あちらに倒れてもだめ。バランスを欠くんです。したがって、バッハの音楽を少しでもよけいに高く評価しすぎてもだめなんです。この世の目的は音楽ではないわけですから。逆に、この世は神のためにあるからといって、神様のことをあまり重視するあまり、この世の中にいま生きている私たち人間の使命についての認識を少しでも欠くなら、これまた神様を喜ばせることにはならない、間違った方向に倒れてしまうものなんです。

鈴木雅明、(聞き手)加藤浩子『バッハからの贈り物』(春秋社 2002年)pp. 397-399




鈴木

バッハを理解には、宗教を乗り越えてとか、宗教とは無関係とか、そんなことを言うのは簡単だけど、それはやはりウソだと思うんです。だから、あなたがクリスチャンになればいいんです、と言えばいいけれど、バッハの音楽のためにクリスチャンになるのも、これまた変ですから.......。

 

 

加藤

理解するというとき、ほかにどんな可能性があるでしょうか。

 

 

鈴木

もちろん、それにはいろんなレヴェルがあります。レヴェルというか、それより人間です。人によってどいういう理解のしかたをするか、そういう問題です。結局はもっと広く言えば、バッハが語りかけることは、一人一人に別のことであって、それここそ同じ  << マタイ >> を聞いても、ああ今日のオーボエはうまいなと思う人もいれば、そこに神のメッセージを聞き取ってクリスチャンになっちゃう人だっているわけですよ。それはもう、千差万別なんですね。それだけに演奏というものは公的なものだと思います。そういう意味で自分の責任として自分が思うことをベストを尽くして実現しなくてはと思いますが、でも、実際はその演奏のあとで、バッハの音楽によって何が引き起こされるのかはわからない。

 

 

加藤

卵が飛んでくるかもしれないし、だれかがクリスチャンになるかもしれない......。

 

 

鈴木

それは演奏がすばらしかったから、ではなく、バッハ音楽がすばらしかったから、というのでもないんです。ぼくの言い方からすれば、ただ、そこに神がはたらいていたからにすぎない。だから、その人は美しい夕焼けを居て感動してクリスチャンになるかもしれない。

 

 

加藤

何がきっかけになるかわからない、ということですね。

 

 

鈴木

ただ一つの動機としてバッハの音楽がもたらすこともありうる、そういうふうにいうことはできますが......。結局、何があってもパウロが言うように「誇るものは、主を誇れ」ということです。バッハの自筆譜の最後に必ずこう書かれている。全くその通りです。「Soli Deo Gloria(ただ神にのみ栄光あれ)」


鈴木雅明、(聞き手)加藤浩子『バッハからの贈り物』(春秋社 2002年)pp. 405-406

(引用終わり)




いかがでしょうか。まさに、ここに、私たちが考えなければならない課題が示されているのです。