﻿<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?><rss version="2.0"><channel><title>Paideia Network</title><description>Paideia Network</description><link>http://paideianetwork.org/jpn/</link><copyright>Copyright Paideia Network</copyright><generator>sNews</generator><item><title>Selbredeさんの訪問</title><description>１０月３０日にThe Chalcedon Foundation  のSelbredeさんが私たちを訪問してくださいました。The Chalcedon Foundation&nbsp;の創設者である　R. J. Rushdoony 博士はアメリカのホームスクーリング運動に多大な貢献をされた方です。ホームスクーラーとホームスクールをしている家庭は、神学的土台を据えることとキリスト教教育のヴィジョンを明確にすることにおいて、Rushdoony 博士に非常に多くを負っています。彼は、生涯、ホームスクーラーに暖かい支援をし続けました。そして、何よりも彼は、２０世紀の偉大な神学者の一人です。Rushdoony 博士が召された後、息子さんの Mark R. Rushdoony師がThe Chalcedon FoundationのPresident となりました。Selbrede さんは　「食卓談話」のかたちで、神の律法、終末論、そして契約神学といった重要な事柄について、私たちの理解を深めてくださいました。　 主はSelbredeさんの訪問によって私たちを励ましてくださいました。また私たちは主にある祝福された交わりを与えられました。　今後、主が私たちの交わりを深めて下さることを祈っています。&nbsp;&nbsp;海ほたるにて&nbsp;内田先生とSelbredeさんとともに &nbsp;</description><pubDate>Fri, 31 Oct 2008 06:33:53 +0000</pubDate><link>http://paideianetwork.org/jpn/blog/selbrede/</link><guid>http://paideianetwork.org/jpn/blog/selbrede/</guid></item><item><title>Summary-August</title><description>８月定例会の要約申命記の構造に由来する契約論創造主なる神は私たちと、契約というしかたで関わってくださっている。しかるに、契約とは何かというと、これまた、神学書にはとおりいっぺんの形式的な説明があるだけである。静的な契約論しかない。しかし、聖書では著しくダイナミック（動的）な契約論が展開されている。ローマ書が組織神学の本であると見るならば、申命記は契約の書である。申命記の構造は５つの部分からなっている。 1）神の超越と内在 申命記 1:1-52) 秩序／権威／上下関係／代表原則 （ 申命記 1:6-4:49)3) 法／基準／倫理 （ 申命記 5:1-26:194) 誓約／裁定／祝福と呪い（申命記. 27:1-30:20)5) 相続／継続性 （ 申命記 31-34)古代オリエントにおけるイスラエルを取り巻く他民族のいわゆる「大王の契約（suzerain treaties)」も、申命記の構造にその起原をおいているのである。以下PaideiaNetworkのウェブサイトからの引用http://paideianetwork.org/jpn/article/christianworldview/まず、契約(Covenant)という重要な概念について簡単に見ておくことにいたします。万物の創造者にして、唯一の生けるまことの三位一体にいまし給う神の言葉である聖書は契約の書です。　創造者である神が人間と契約をむすんでくださったのです。この契約は神の一方的な恵みにより与えられ、神御自身が憐れみと恵みのうちに、神がこの契約を保持してくださっています。　契約は聖書を理解する上で根本的かつ基本的概念ですのでその性質について手短かに述べます。まず創造者なる神は４つの契約によって社会を支配しておられます。それは下記の四つです。1*　ひとりひとりの個人との契約2*　家庭との契約3*　教会との契約4*　国家との契約　契約の五特質さて、Ray Suttonという牧師は、その著書That You May Prosper(あなたが栄えるために）において、契約には下記の５特質があると述べています。1.　神の超越と内在(Transcendence and immanence)—神の主権神は万物の創造者であり、今も万物を御自身の御旨によって支配しておられます。創造者なる神は御自身のお造りになった被造物と区別されます。いいかえると、被造物が神になることはありません。神は御自身の主権によって、すべてを支配しておられます。同時に神は被造物と共におられます。神は被造物からまったくかけ離れて存在しておられるのではなく、むしろ、万物のすみずみにまで神のみわざがあらわれています。2.　秩序／権威／上下関係／代表原則/説明責任(Hierarchy/Authority/Order/representation/accountability)創造者にして支配者である神は、人間をひとりひとり直接的に支配しておられます。人間は神の命令に従わなければなりません。ひとりひとりの個人は自らのなすことを神に対して申し開きをする責任をおっています。　「私たちはみな神の審判の座の前にたたなければならない。次のように記されているからである。『主いい給う。我は生くるなり。　すべての膝は我が前にかがみ、すべての舌は神をほめ讃う。』それゆえ、私たちは、ひとりひとり神に対して申し開きをしなければならないのである。」（ローマ　１４章１０節 -１２節）その上で神は社会の秩序をたてられます。ですから全て社会における権威は創造者なる神に依存しています。3.　法／基準／倫理(Law/Ethics/Standard)創造者である神は、契約を実行していく際に、法的、倫理的な基準を制定されました。それが、聖書の御言葉であり、そして、特に聖書律法（Biblical Law）と呼ばれている法体系において、神は御自身の御旨を示されています。法なくして、契約は存在し得ないのです。そしてまた、神の定めた法はすべての被造物におよんでいます。それゆえ、すべての存在は必然的に倫理的な存在となるのです。4.　誓約／裁定／祝福と呪い(Oath/Sanction/Blessing and Curse)契約は誓約にもとづいて施行されます。創造者なる神に従い契約をまもるならば契約に定められた祝福が与えられ（申命記２８章１節-１４節）創造者なる神に反逆し契約を守らなければその契約に定められた呪いと裁きが与えられます。（申命記２８章１５節-６８節）別な言い方をするならば、創造者なる神は因果律を制定されました。すべての物事に原因と結果があります。創造者なる神がすべてを支配し給うゆえに、この因果関係は決して無作為（random)なものではなく、倫理的な意味をもち、それは究極的に神の栄光をあらわすものとなるのです。　個人も家庭も教会も国家も契約を守れば祝福され、契約をやぶれば裁かれ呪われるのです。5.　相続／継続性(Inheritance/Continuity)契約は神の御旨によって継続されます。どんなに時代がかわろうとも、神の言葉も神の契約も変わることがありません。創造者なる神はこう宣言しておられます。「我を憎む者に向かいては父の罪を子に報いて三代、四代におよぼし、我を愛し我が戒めを守る者には恵みを施して千代にいたるなり。」（申命記５章９-１０節）同時に私たちはどのような時代においても、時が良くても悪くても、創造者なる神との契約を守り続けていかなければならない責任があるのです。-------------------------------------創造主はこの世界を契約的に治めておられる。であるから、この契約モデルは実は非常に実際的である　神学は基本的に日常生活に役立つ実際的なものなのである！！！上記の契約の５特質をもっと噛み砕くと以下のようになる。１）Who is in charge here?(誰が仕切っている？）２）To whom do I report?(誰に説明責任をおっている。ボスはだれ？）３）What are the rules?(ルールは？）４）What happens to me if I obey(disobey)?（したがえば／従わなければ、私に何が起こる？）5)Does this outfit have a future?(将来うまくいくのか？見通しは？）ある意味で人間のなすすべての活動はこの５ポイントに関わっている。というのは創造主なる神は契約的に被造物と関わっておられるからである。家庭も教会も経済も政治も科学も哲学もすべてこの意味でこの５ポイントに関わっている。言い換えるとすべては契約的な意味を持っている。　契約神学の教えることはかくも広大な意味をもっており、それはすなわち聖書の教えるところそのものである。十戒における契約の５特質実は十戒にも、契約の５特質があらわされている。十戒は下記のようにクリスチャンが祭司として守る指針と王として守る指針の二つに分けられる。Priestly Code(祭司規則）第１戒　Transcendence（超越・内在）:&nbsp; prohibition of false worship（偽りの礼拝を禁止する）第２戒　 Hierarchy 秩序／権威／上下関係／代表原則/説明責任 no graven images(representation)偽りの神々を代表する偶像に頭をさげてはならない。第３戒　 Ethics（倫理・法）:&nbsp; prohibition against misusing God's name("no trespsassing" sign around His name)神の御名を誤用乱用することは倫理的に違法であり悪である。第４戒　 Oath（祝福と呪い）:&nbsp; Sabbath as a day of judgement(baptism, Lord's supper)毎週、主の日にわたしたちは祝福と裁き（懲らしめ）を受ける第５戒　 Successsion （相続・継続） honoring father and mother; long liife as the promised inheritance.父と母をうやまうことによって約束される祝福について。Kingly Code(王規則）第６戒　Transcendence（超越・内在）prohibition against murder(God's image)神の似姿である人を殺してはならない。第７戒　 Hierarchy（上下関係／権威／秩序）prohibition of adultery(Covenant authority) 家庭は 契約的に権威づけられているので姦淫によって破壊してはならない。第８戒　 Ethics（倫理／法）prohibition against theft盗むことは違法であり、悪である。第９戒　 Oath（祝福と呪い／誓約）no false witness　偽りの誓約をしてはならない。第１０戒　 Successsion （相続・継続） no coveting of another's property, which constitutes family inheritance　隣人の所有するもの（家庭の相続）をむさぼってはならない。カルヴィン主義の５特質にみられる 契約の５特質いわゆるカルヴィン主義の５特質は実はこの契約の５特質の要素と関わっている。カルヴィン主義の５特質は上述の契約の５特質の救済論における適用なのである。1.&nbsp; Total depravity/innability&nbsp; /&nbsp; 全的堕落／無能力Ethics(man's) 法／基準／倫理（神の法により人間は罪にさだめられる。）2.&nbsp; Unconditional elction/Oath(God's）無条件的選び祝福と呪い／誓約　（ある者たちは救いに選ばれある者は滅びに定められる。）3.&nbsp; Limited atonement/Hierarchy(representation)特定的贖罪代表原則 （キリストは救いに選ばれたものたちのため（救われるものたちの代表として／恵みの契約の代表として）に特定的に十字架の上で身代わりの刑罰をうけられた。4. Irresistible grace/Transcendence(Sovereignty)不可抗的恩恵神の超越と内在)—神の主権（聖霊なる神が救いに導かれるとき罪人はその恵みに抵抗できない。）5. Perseverance of the saints/Succession聖徒の堅忍相続／継続性いったん救われたものは永遠に救われている。------------------------------契約の五特質の展開キリスト信仰そのものがこの契約の５特質と関わっている。１　神の主権-- 神の超越と内在/神の主権２　神の御言葉の絶対的権威-- 権威／ 秩序／上下関係３　神の律法（theonomy) ---法／基準／倫理４　契約的世界観—誓約／裁定／契約に伴う祝福と呪い５　後千年王国—神の御国の相続・継続上記をもっと詳しくすると１　神の主権---Calvinismカルヴィン主義神学/世界観神はその主権によってすべてを保持し支配しておられる。２　神の御言葉の絶対的権威---presuppositionalism&nbsp;&nbsp; episitemological self-consciousness　ヴァン・ティルの前提論、認識論----認識論的／倫理的自覚聖書の御言葉がすべての出発点である。３　神の律法（theonomy)&nbsp; １st. 2nd, and 3rd use of the Law of God　律法の第１用法、第２用法、第３用法、神の律法は現代社会にも適用される。律法を守ることによって救われるのではない。しかし神の律法はすべての分野における基準となる。４　契約的世界観&nbsp; Covenantal world and life view / covenantal community,&nbsp; family integrated church/&nbsp; casuistric approach to any subject契約共同体としての教会。教会は家庭があつまって建て上げられていくのであって、いわゆる小グループによって家庭を細分化・解体する方法によってたてあげられるべきものではない。御言葉を解き明かし、かつそれを実際にすべての分野に適用し、すべてを聖書的世界観によって判断していかなければならない。すなわち聖書にもとづく決疑論を持つことが必要である。５　後千年王国&nbsp;&nbsp;&nbsp; Partial preterism/&nbsp;&nbsp;&nbsp; Optimistic millennialism&nbsp; &nbsp;教会は、歴史の完成にむかって勝利の歩みを続ける。御心が天になるように地においてもなされる。神の御国は前進しているのである。　紀元１世紀に比べればクリスチャンの数は圧倒的に多い。それだけでも神の御国は前進している。紀元２世紀にバッハの音楽はなかった。教会は常にこの世に敗北し続けるなどという終末論は２０世紀の妥協した教会の弱さから出てきた。ピルグリムもピューリタンも、たとえばジョンノックスもスポルジョンも皆、キリストの御国のこの地上における勝利を信じて疑わなかった。１９世紀の世界宣教は 後千年王国の教えによってなされた。キリスト教会の歴史において、もっとも輝かしい働きがなされたとき、それはいつもクリスチャンたちが神の御国と教会の勝利を信じていた（ 後千年王国説に立っていた）時代であった。&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; &nbsp;多くの人々がヨハネの１８章３６節の主の言葉を誤解しているイエスは答えた。「わたしの国はこの世のものではありません。」　この言葉は神の御国はこの世と何の関わりもなく、クリスチャンの心の中にのみあるとか、教会の中だけにあるという意味ではない。ここの主の御言葉は元来「わたしの国はこの世から出たものではありません。」と訳すべきところでる。ギリシャ語の「エク」という前置詞は英語でいうところのfromである。つまり神の御国はこの世からこの世の考え方からスタートしたのではないということを主はおっしゃっているのである。人間の基準で動くのではなく、神の主権のもとに、神の御旨のもとに建て上げられる神の御国の支配はこの地上において見える形で実現するのである。「わたしには天においても、地においても、一切の権威が与えられてます。」マタイ２８：１８キリストの支配は歴史において、個々のキリスト者をとおして、クリスチャンの家庭をとおして、教会をとおして、歴史の完成にむかって少しずつ世に対して（途中一進一退することはあっても）勝利しながら、拡大していくのである。************************************************************************以下PaideiaNetworkのウェブサイトからの引用http://paideianetwork.org/jpn/article/christianworldview/すべての社会制度は創造者なる神の主権的支配のもとにあることが聖書にかかれています。創造者なる神は無限、永遠、不変であられます。無限であるゆえに唯一の神なのです。また神はすべてを主権的に支配しておられます。神に従うのでもなく、神に反逆するのでもないといった中立の立場は存在しません。Robert Thoburn　という教育者は次のように述べています。「中立の立場が存在するなどというのは空想にすぎない。....　中立の立場とか中立領域などというものは存在しない。　全ての分野／領域は（創造者にして主権者である）神の関与と支配のもとにあり、それゆえ、神の関与と支配の及ばない分野／領域などというものは存在しない。　もし中立領域が存在することを認めるならば、それは、神が全宇宙のほんの一部に閉じ込められていると主張することを意味するのである。」Robert Thoburn, The Children Trap　 (Ft. Worth Texas: Dominion Press, 1986), p. 82こういうわけで、キリスト教的世界観か非キリスト教的世界観かの二つの世界観しか存在しないことになります。現代社会の混迷の原因は絶対的存在である創造主なる神を否定し、その結果として、すべての価値基準を相対的にとらえてしまう相対主義が広がってしまったことにあり�ﾜす。倫理も道徳も相対的なものとなってしまったので、いまや価値判断の基準がなくなってしまっています。この混迷の状況は単に伝統的価値観と呼ばれているものに戻っても解決しません。というのは伝統的価値観もしょせんは人間のつくりだしたものだからです。創造者なる神の御言葉のみが不変であり、普遍なのです。　聖書にはすべての分野における解決が示されています。　そこに、わたしたちの進むべき道が示されています。わたしたちは、創造主なる神につくられた被造物にすぎません。神にいい逆らうことは許されていないのです。「ああ人よ、神にいい逆らうあなたは何者なのか。つくられた者がつくった者に対して、『なぜ、あなたは私をこのようにつくったのか？』といえるだろうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりを　尊い目的に用いる器にも、賤しい目的に用いる器にもする権能をもっていないのだろうか。」（ローマ　９章２０ -２１節）すべての人は前提によって生きています。R. J. Rushdoony という神学者は次のように述べています。「もし人が自分の前提に忠実に論理的であるならば、例えばもし仏陀の教えに従い、無（nothingness)という前提から出発するならば、彼は無に終わる。　しかし人間が論理的であることは稀である。（創造者なる神を）信じないという前提に忠実であるならば、それは何も知ることができないという結論にいきつくのである。ところが罪人はこれを認めない。　彼はこう主張するのである。すなわち　『神に関することや神を指し示す状況に関してだけは何も知ることができない』と。　そして、彼は神に関すること以外については、いつも（創造者なる）神のみが与えることのできる宇宙を当たり前の前提としているのである。そうしていながら、その宇宙をつくった神を否定するのである。.......もし人が事実のみから出発するならば、すべての事実を徹底的に網羅的に一つ残らず調べかつ極めない限りなにも知ることはできないのである。」R. J. Rushdoony, "The Quest for Common Ground" in Gary North(ed.), Foundation of Christian Scholarship (Vallecito, California: Ross House Books 1979), p 33私達はリンゴが木から地面に向かって落ちることを当たり前と考えています。この「当たり前と考えるということ」が前提なのです。　もし事実を調べ確かめ検証することから真理にいたらなければならないと主張するならば、世界中のすべてのリンゴの木を調べ尽くさなければならないのです。そうしない限り「リンゴが木から地面に向かって落ちる」と断言することはできません。こういうことをしていると学問は成立しません。つまり私達は知識を得ることができないのです。創造者なる神がすべてをつくり、今もなお支配しておられるという前提がないかぎり、わたしたちは、何もできません。　この前提なしに私達は生きていくことは不可能です。罪人が創造者なる神を否定することは、実は創造者なる神が存在することを認めているからなのです。存在しないものを否定することはできません。聖書にはこのように書かれています。「神の怒りは、不義をもって真理を阻む人々のもろもろの不敬虔と不正に対して天から啓示されているからである。　なぜなら、神について知りうるべきことは彼等に明らかであるからだ。神がこれを彼等に示されたのである。なぜなら神の、目にみえない属性、すなわち永遠の力と神性は　世界が創造されてから被造物において　はっきりと認められ理解されるがゆえに、彼等が言い逃れることはできないのである。」（ローマ１章１８節-２０節）以上、社会制度について、聖書に示されている世界観にもとづいて、短く考察をしてみました。これを理想論として片付けるべきではありません。　聖書において　創造主であられる神は個人、家庭、教会、社会が神に従うことを命じています。創造主なる神の言葉の真理を前提としないかぎり、私達は何もできないのです。私達ひとりひとりの個人の人生において、家庭において、教会において、国家において、その他もろもろの組織において、主権者なる神が指し示す基準がなくなってしまえば、私達の前には荒廃と滅亡がもたらされるだけなのです。創造主なる神なき社会は死と滅亡に向かいます。そして、今まさに、この現代において、私達は社会が創造主なる神に反逆し、死と滅亡の道に向かっていこうとするのを見ています。創造主にして絶対主権者なる生ける唯一のまことの神はかつて、モーセをとおしてイスラエルの民に対して次のように命ぜられました。　そして、この命令は現代に生きる私たちにも与えられているのです。　「見よ、我、今日（きょう）、命と幸い　および　死と災いを　汝の前におけり。すなわち、我、今日　汝（なんじ）にむかいて汝の神　主を愛し、その道に歩み、その戒めと律法（おきて）を守ることを命ずるなり。　しかなさば、汝　生きながらえてその数多くならん。　また汝の神　主、　汝がゆきて、得るところの地にて汝を祝福（めぐみ）給うべし。　されど、汝もし心をひるがえして、聞き従わず、誘（いざな）われて他の神々を拝みまたこれに仕えなば、我、今日、汝らに告ぐ。汝らは必ず滅びん。..............我　今日、天と地を呼びて証（あかし）となす。　我は生命（いのち）と死　　および　　祝福（めぐみ）と呪詛（のろい）を汝らの前に置けり。汝、生命（いのち）を選ぶべし。　しかせば、汝と汝の子孫　生存（いきながら）うることを得ん。（申命記　３０章１５節-１９節）」&nbsp;参考文献 
DeMar, Gary. God and Government Vol. I . Atlanta, Georgia: American Vision Inc. , 1990
DeMar, Gary. Ruler of The Nations. Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1987
North, Gary. Liberating Planet Earth. Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1987
North, Gary. The Dominion Covenant: Genesis. Tyler, Texas: Institutes of Christian Economics, 1987
North, Gary. Tools of Dominion. Tyler, Texas: Institutes of Christian Economics, 1997
Rushdoony, Rousas John. 　By What Standard?　Tyler, Texas: Thoburn Press,  1983
Rushdoony, Rousas John. Systematic Theology in 2 volumes. Vallecito, California: Ross House Books, 1994
Rushdoony, Rousas John. The Institutes of Biblical Law. The Presbyterian and Reformed Publishing Company, 1973.
Rushdoony, Rousas John. The One and The Many. Fairfax, Virginia: Thoburn Press,1978
Rushdoony, Rousas John. This Independent Republic. Fairfax, Virginia: Thoburn Press, 1978
Sutton, Ray. That You May Prosper. Tyler, Texas: Institutes of Christian Economics, 1987
Thoburn, Robert. The Children Trap. Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1986&nbsp;</description><pubDate>Sun, 17 Aug 2008 05:41:28 +0000</pubDate><link>http://paideianetwork.org/jpn/blog/summaryaugust/</link><guid>http://paideianetwork.org/jpn/blog/summaryaugust/</guid></item><item><title>家族旅行</title><description>子供たちが日本の文化と歴史に対する理解を深めるために、先日私たちは奈良と京都に行ってきました。京都　二条城にて帰り道の途中、堀越暢治牧師の牧会する創愛キリスト教会(&nbsp;http://soaikirisutokyoukai.com/ )を訪ねました。先生にはじめてお会いしたのは数年前のことでした。堀越先生は日本における創造論を推進するリーダーのひとりです。そして何冊かの本を書いておられます。http://www.answersingenesis.org/japanese/English/English_info.asp現
在の教会は仏教と神道の影響の非常に強い地域で７年前に開拓を始められ、現在、主日礼拝には７０人以上の出席があります。これは日本における開拓伝道にお
いては珍しいことです。元来、普通の日本人にとって、日本語の「神」という言葉は創造主という意味を含んでも、指し示してもいないため、堀越牧師は「創造
主（つくりぬし）」という言葉を「神」という言葉の代わりに、特に伝道の場において用いることは極めて重要であるとおっしゃています。「神」
という語は、もともとの日本語では「絶対者」を意味しないにもかかわらず、「唯一の創造者なるまことの神」を指し示す語として、クリスチャンの間で用いら
れています。しかし、これはクリスチャンでない日本人にとって、少なからず混乱をもたらし、福音の理解が不十分になってしまいます。堀越先生は、「創造
主」と言う語を用いて、創造主が存在することを示し、創造論をノン・クリスチャンに教えます。これは日本における伝道において、著しい力を発揮する方法で
す。そして、これが、創愛キリスト教会の生き生きとした成長の原因の一つとなっていることは明らかです。堀越先生はヴィジョンの人です。そして、いま日本にアメリカにあるような創造論博物館を立てることを計画しています。先生がアメリカから日本に帰るときに、写真のティラノサウルスの頭部のレプリカを買ってこられ、これが教会の一室においてあります。 &nbsp;アメリカの創造論博物館（http://www.creationmuseum.org/）を運営する団体であるAnswers in Genesis （www.answersingenesis.org/）は堀越先生の働きに感謝して、写真のような感謝状を送りました。&nbsp;&nbsp;帰り道、富士山がよく見えました。とても祝福された家族旅行でした。由比のパーキングエリアでほぼ同じ場所（約１７０年前）</description><pubDate>Sat, 22 Mar 2008 08:33:52 +0000</pubDate><link>http://paideianetwork.org/jpn/blog/family-field-trip/</link><guid>http://paideianetwork.org/jpn/blog/family-field-trip/</guid></item><item><title>2/16/08 ホームスクーリング入門セミナー</title><description>「時を知ること」毎月第三土曜日に行われるホームスクーリング入門セミナーが始まってから一年以上たちました。２００８年２月１６日は、私たちの生きている時代が大きな変革の時であることについて考えました。1歴代誌 12:32 にイッサカル族は時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っていたと記されています。クリスチャンはイッサカル族の子らのように時を知る必要があります。私たちを取り巻く状況は２０世紀後半から大きく変化していいます。時に私たちは、十分な情報を得るためにエコノミストの書く本さえ読まなければなりません。今回私たちは、「企業参謀」「見えない大陸」などの著者として知られているエコノミスト大前研一氏による"親が反対しても、子供はやる"&nbsp;という教育論の本を使った学び（キリスト教世界観からの考察もしつつ）をしました。私たちはキリスト教世界観に立っているので、いま世界で何がおこっているかについて、はっきりと理解することができます。今回、私たちは、改めて、情報化社会の出現によって、ホームスクーリングというが時代の最先端をいく教育方法であることを再認識しました。 </description><pubDate>Sat, 16 Feb 2008 04:32:50 +0000</pubDate><link>http://paideianetwork.org/jpn/blog/21608-introsem-jp/</link><guid>http://paideianetwork.org/jpn/blog/21608-introsem-jp/</guid></item><item><title>Christian Liberty and Liberty of Conscience</title><description>キリスト者の自由および良心の自由 キリスト者の自由および良心の自由はホームスクーリングの土台を形成している要素である。ウェストミンスター信仰告白　第２０章（第二ロンドン信仰告白　第２１章）キリスト者の自由および良心の自由について第１項１）キリストが信者のために自由を買い取って下さったこと２）この自由は罪の咎とのろい、この世を愛すること、サタンの奴隷であること、罪の支配、患難の災い、死のとげ、墓の勝利、永遠の滅びの刑罰からの自由神に近づく自由、神に従う自由、神を愛する自由３）新約の時代と旧約の時代の神の民は同じ質の自由をもっており、その度合いが違うだけであること奴隷的意志救われていない不信者は自由にまことの神を愛することができない。罪の奴隷となっている。ヨハネ８：３６　ローマ８：２１−１キリスト者は救いに関して律法の遵守から自由にされているーキリストのあがないのみわざによって。−２この自由は罪の支配からキリスト者を自由にした。　ローマ６：２２　キリスト者はサタンの支配のもとにいない。　艱難や災い、そして罪に対する懲らしめも　信者の益と神の栄光のためと書かれている。ローマ８：２８　死がもっていた刑罰の性質もキリスト者からは取り除かれた。１コリント１５：５４−５７この自由は放縦とは異なる。　ガラテヤ　５：１３自由とは罪からの自由と神の僕となることである。サタンは放縦を自由の偽物として提供する。自由は神の律法から与えられる。神の律法を無視ないし廃棄しようとするならば（それは不可能であるが）それにかわる人間の法が必ず出現する。神の律法は神の愛の表現である。ガラテヤ３：２１、ヘブル８：１０　　第２項１）神のみが良心の支配主であること２）聖書の御言葉のみが良心の規範であること３）神の御言葉に反するないし、神の御言葉に付け加えられた（御言葉に含まれていない）人間の教えや法は良心を束縛するいかなる権威をも持たない。４）そのようなものに良心が束縛されることを　ゆるしてしまうならば、それは良心の自由に対する裏切り行為であり、神のみが主であることを否定する事である。なぜなら良心は神から与えられているものだからである。５）キリスト者の自由は無律法主義とは異なる。この第２項は宗教改革の偉大なる成果である。「人に従うよりは神にしたがうべきである。」使徒５：２９　初代教会、アンブロシウス、ルター、カルヴァン、ジョンノックス、ピルグリムなどの例　１コリント７：２３「汝らは価をもて買われたるものなり。人の奴隷となるな。」政教分離ーー政府（国家）と教会の分離国家による教育統制はこの原則に反する教会のなかにもこの良心についての原則に反する実践がなされていることがある。時々、教会においても、何か、ある種の規則がつくられ、それがひとりひとりのキリスト者の良心を束縛することがある。そのような例としては、−１その規則が、神の御言葉に反する場合。　たとえば、コーヒーを禁止する。肉食を禁止する、などなど聖書において認められている自由を、禁止する。ローマ１４：１４、２０　あることについて、それが誤り、ないし罪であると良心に基づいて（確固たる理由を説明できないとしても）自覚しているにもかかわらず、そのことを外的な規制があるので、「ながいものにはまかれろ」精神で、行うということはいついかなるときでも正しくない事である。ー２その規則が神の御言葉に何かを付け加えるような場合教会がいろいろなことを義務として付け加えてしまう場合、例えば決められた時に断食をすること、最低年一回は告解をおこなうこと、などわれわれは罪人なので、気をつけないと他の兄弟の良心を踏みにじったり、与えられた自由を放縦に変えようとしたり、する。我々は「小さな教皇」を自分の心の中に育てようとする傾向がある。ローマ１４章において、クリスチャンはお互いの良心を尊重するように命ぜられている。キリスト者の自由および良心の自由はクリスチャンが常に御言葉によって養われ、成長しているときにのみ可能となる。　　教会指導者たちと信徒たちは互いに養い合う関係でもある。そのような状況において初めて、良心の自由は保たれる。教会が独裁制ないし、無政府状態であるときには、良心の自由は尊重されない。規制原理という原則---改革派信仰の基本原則の一つ狭い意味では、礼拝において、聖書で命ぜられていないことは禁止されている。（多くの教会では　それはゆるされている　と解釈されてしまう）広い意味では、守るべき信仰における基本的な立場、教え終末論、洗礼論（どのくらいの量の水をバプテスマの時に使うかなど）、は規制原理にはならない。終末論、洗礼論について聖書はある程度の解釈の幅を認めている。規制原理を保ちつつ、個々のクリスチャンは信仰と良心の自由を与えられている。規制原理と個人の信仰の良心自由のバランスをとることの重要性第３項キリスト者は正しい自由をもって神に仕える、それは下記のようなこととなる。−１　神の律法に対する正しい理解　　十戒をはじめ神の律法（およそ６００ある判例法も含めて）−２　何かをなすときに　そのなす時、そのなすときの状況、文脈、経緯、を正しく判断しおこなう。　　タイミングの重要性　２コリント６：２　　ピアノをひくことは基本的によいことであるが、例えば夜中にひけるか。ついきのうまで、神の敵が使っていた音楽を、歌詞を変えて礼拝に使う事は適切か？ー3　正しい動機なり意図をもってその事をおこなうのか？神の栄光のためになすのか、自分の利得のために事をなすのか？第４項国家と教会のバランス、３つの社会制度　　下記を参照ください。http://paideianetwork.org/jpn/article/christianworldview/家庭、教会、国家国家の教育に対する統制、教会の家庭に対する統制、家庭が教会を統制してしまう、などなど一と多の原則本体論的三位一体論がすべての存在の土台、根底にある。&nbsp;&nbsp;&nbsp; 参考として、ウェストミンスター信仰告白　第２章　神について、また聖三位一体について&nbsp;&nbsp; ３　神の統一性の中に、ひとつの本質、力、永遠性をもつ三つの人格がある。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神である(1)。み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる(2)。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る(3)。&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　１　?ヨハネ5:7、マタイ3:16,17、マタイ28:19、?コリント13:13(*)&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　　　　*欽定訳は?コリント13:14　&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　２　ヨハネ1:14,18&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　　３　ヨハネ15:26、ガリラヤ4:6参考文献G.I.Wiiliamson, The Westminster Confession of Faith for Study Classes&nbsp;(Presbyterian and Reformed Publishing Co)pp.147-157&nbsp;</description><pubDate>Sat, 17 Nov 2007 07:01:13 +0000</pubDate><link>http://paideianetwork.org/jpn/blog/christian-liberty-and-liberty-of-conscience/</link><guid>http://paideianetwork.org/jpn/blog/christian-liberty-and-liberty-of-conscience/</guid></item></channel></rss>